1537年~1575年(享年39歳)
真田 信綱(さなだ のぶつな)は、甲斐武田家に仕えた武将です。
武田二十四将の一人で武勇に優れ、騎馬200騎を率いる侍大将として活躍しました。
信綱は通称「左衛門尉」と呼ばれますが、甥の真田信繫(幸村)も「左衛門佐」と同じ左衛門を名乗り、父の昌幸が「信綱のように剛勇になってほしいと」期待を込めて名乗らせたともいわれます。
生まれ
信綱は天文6年(1537年)、武田家臣・真田幸隆の長男として生まれ、真田昌幸は弟に当たります。
父・幸隆は当初「幸綱」と名乗っていたことから「綱」の字に加え、当主・武田信玄の「信」の字を与えられて「信綱」と名乗りました。
幸隆や昌幸は謀将として名を馳せていきますが、信綱は武勇に優れており、初陣の信濃小岩嶽城攻めでは一番槍の功名を挙げ、「若年より武勇抜群、信玄・勝頼両代のうち、攻城、野戦、その功すこぶる多し(真田家譜)」と評されました。
信玄時代
永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いでは父・幸隆と上杉本陣に当たる妻女山攻撃の別働隊に加わり、永禄6年(1563年)に幸隆が岩櫃城攻略を始めると、信綱は真田の本拠である信濃を任されました。
天正2年(1574年)に幸隆が病没すると、信綱は永禄10年(1567年)頃に真田家の家督を継ぎ、以後は「百足衆」と呼ばれる部隊を率いた弟の真田昌輝と駿河侵攻、西上作戦などで先鋒を務めました。
真田一族は信綱が騎馬200、昌輝は騎馬50、昌幸と信尹が各騎馬15を率いており、武田信濃衆として破格の兵力を持っていたことから、武田家中でも外様でありながら譜代家臣と同等の扱いを受けて信玄から信任されていました。
長篠の戦い
信玄の後を継いで武田勝頼が当主となると、信綱は勝頼に仕えて天正3年(1575年)に長篠の戦いに参戦しました。
信綱は馬場信春が率いる右翼に配置され、佐久間信盛隊に向けて三尺三寸(約1m)の陣太刀・青江貞を振って敵陣に迫りましたが、鉄砲部隊の銃撃によって弟の昌輝と共に戦死しました。
信綱の首は織田・徳川方に取られた後、真田家臣の北沢最蔵・白川勘解由の兄弟が信綱の着用していた陣羽織に包み甲斐へ持ち帰ったといいます。
その後、首を包んだ陣羽織は「血染めの陣羽織」と呼ばれ、昌幸が位牌所として建立した信綱寺(上田市)に収蔵されました。
首を持ち帰った北沢最蔵と白川勘解由は忠義を賞されて北沢家に300石、白川家に200石が与えられましたが、白川兄弟は使命を全うすると、主の後を追って殉死しました。
子孫
信綱には真田信興・信光ら男子がいましたが、勝頼の命令で幼い幼児たちへの真田家の家督継承は認められず、信綱の弟・昌幸が継ぎました。
信綱には清音院殿と呼ばれる娘もおり、昌幸の息子・真田信之の正室となりました。後に本多忠勝の娘・小松姫が嫁いでくると側室に降格させられましたが、長男・真田信吉を産み、信綱の血筋を繋ぎました。