織田木瓜

織田木瓜
1535年~?
濃姫(のうひめ)は美濃国の戦国大名・斎藤道三の娘です。尾張の大名・織田信長に嫁ぎましたが、濃姫に関する史料は乏しく、謎の多い女性でもあります。




濃姫の生まれ

濃姫は天文4年(1535年)、美濃(岐阜)大名・斎藤道三と正室・小見の方の娘として生まれました。小見の方は、東美濃の名家・明智家の出身で、濃姫は正室唯一の子であるといわれています。

信長との婚姻

天文10年(1541年)頃に道三が守護・土岐頼芸を追放して美濃国主となりましたが、隣国・尾張の織田信秀が下剋上を起こした道三を退治する名分で美濃に進攻します。

道三が和睦を提案すると、信秀は和睦の条件として信秀の嫡男・吉法師丸(織田信長)と濃姫を結婚させるよう誓約させました。

天文18年(1549年)、濃姫は15歳で信長に嫁ぎます。

正徳寺会見

天文22年(1553年)、道三と信長は正徳寺で面会し、初めて顔合わせをしました。

しかし、濃姫に関する史料は婚姻以後途絶えており、濃姫の没年、墓所も不明となっています。濃姫のその後に関する仮説は諸説ありますが、全て憶測となっています。

濃姫のその後

離縁説

信長と濃姫がその後離縁していた場合、政略結婚の意義がないため、史料から濃姫の存在がなくなったという説です。

しかし、政略結婚の際に信長を美濃国の後継者としていた道三の国譲状があったことから、信長にとって濃姫と離縁するのは政治的には意味のないことです。

離縁したとすればそれ以外の事情があったと考えられますが、離縁に関する史料が残されていないことから、死亡説も浮上しています。

死亡説

早世説

信長と離縁後、濃姫は叔母の実家である明智城に帰り、その後道三が斎藤義龍に殺害されると、濃姫も共に殺害されたという説です。

義龍の美濃統一戦で、明智城は弘治2年(1556年)に落城していることから、このとき濃姫が死去したとすれば享年22歳、道三の死から5か月後に死去しています。

本能寺戦死

濃姫が信長と本能寺で死去したという史料はなく、創作によるものと考えられています。

しかし、本能寺の変後に信長家臣の一人が濃姫の遺髪を埋葬したといわれる「濃姫遺髪塚」が西野不動堂(岐阜県岐阜市)にあることから、本能寺で戦死したとすれば、濃姫は享年48歳となります。

生存説

安土城避難

濃姫は本能寺の変が起きた際に安土城にいて、生存していた説です。

戦国時代から安土桃山時代の学者・大村由己が記した「総見院殿追善記」には、安土城から落ち延びた「北の方」と呼ばれる女性が登場し、濃姫ではないかとされる説があります。

安土殿

信長の次男・織田信雄の時代に編纂された「織田信雄分限帳」には「安土殿」という女性が記されており、濃姫であるという説があります。

安土城の「安土」という地名で呼ばれていることから、その地と縁の深い信長の妻、つまり濃姫ではないかという説です。安土殿が濃姫だとすれば、濃姫は本能寺の変後も生存していたことになります。




濃姫の逸話

濃姫の本名

濃姫という名前は正徳6年(1716年)に刊行された「武将感状記」、江戸中期に書かれた「絵本太閤記」などに記されている通称で、美濃の高貴な姫君という意味があり、本名ではありません。

濃姫の本名は不明ですが、美濃国の名家や豪族について記された「美濃国諸旧記」には濃姫の名が「帰蝶(きちょう)」、もしくは「鷺山殿(さぎやまどの)」とされ、濃姫の父・道三が隠居して鷺山城に移り住んだ際、濃姫も鷺山城から信長の下へ嫁いだことが由来とされます。

また、前述の通り「安土殿」と呼ばれ、信長死後も生存していた可能性があります。

濃姫と明智光秀

濃姫は明智光秀の叔母、もしくは従兄妹の関係など諸説ありますが、濃姫にも光秀の出自に不明点が多いことから詳細関係は分かっていませんが、明智家の同族と考えられています。

蝮(まむし)の娘

信長へ輿入りする際、濃姫は道三から懐剣を渡されます。道三は「信長が噂通りうつけであったら、その刀で寝首を搔け」と言い、濃姫はその懐剣を受け取りました。

濃姫は「分かりました。しかし信長がうつけでなかったら、この剣は父上を刺す刀になるかもしれません」と道三に言いました。

この逸話は創作とされていますが、戦国時代、武士の妻として生きていく女性の強さを表しています。

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