織田木瓜

織田木瓜
?~1558年
織田 信勝(おだ のぶかつ)は、尾張国の戦国武将です。織田信長の弟に当たる人物で、「織田信行」の名でも知られます。

信行の名は江戸時代に編纂された「織田系図」の表記から取ったもので、信勝が生きていた頃の史料には信勝、達成(みちなり)、信成(のぶなり)といった名で記されています。




織田信勝の生まれ

信勝は尾張国(愛知)の大名・織田信秀の三男として生まれました。母は土田御前で、織田信長の同母弟です。

うつけと呼ばれていた兄と対照的に信勝は品行方正で、家臣たちからも信勝が家督を継ぐことを強く期待されていました。

天文21年(1552年)に父・信秀が死去すると、信勝は兄の信長を差し置いて織田家の当主が代々名乗っていた弾上忠の位を名乗り、信長と対立し始めます。

秀孝事件

弘治元年(1555年)、信勝の叔父・信次が鷹狩りをしていたところ、その横を騎乗のまま通り過ぎようとした人物を家臣が無礼として威嚇射撃し、誤殺する事件が起きました。

信次の家臣が射殺したのは信長と信勝の弟・秀考で、激怒した信勝は信次の居城・守山城の城下を焼き払います。

しかし、信長は「無防備に単騎で行動していた秀孝にも非がある」として信次を処罰しませんでした。信次は死罪を恐れて出奔しましたが、この事件の対応の違いから、信長と信勝の対立は更に深まっていきます。

稲生の戦い

弘治2年(1556年)、信長の舅であり、同盟者であった美濃の斎藤道三が斎藤義龍に殺害されました。更に義龍は織田家と敵対する勢力を支援したため、信長は後ろ盾を失います。

織田家中も信長派と信勝派の2つに分かれて内戦状態となり、信長は当主の器にあらずと見ていた織田家の筆頭家老・林秀貞、林通具、柴田勝家らも信勝を擁立しました。

家督を継ぐ機会を窺っていた信勝はこれを契機に謀反を起こし、1,700の兵を率いて稲生で戦いましたが、信長は士気の高い700の親衛隊を率いて自ら前線に立って指揮をとって戦います。

結果は通具が戦死し、勝家も敗走したため信勝方が敗北しました。信勝、林秀貞、柴田勝家らは母・土田御前の取り成しによって赦免されましたが、その後も信勝は信長に対して敵意を持ち続けていました。

信勝の最期

その後、再び信勝が謀反の計画を立てましたが、信長に翻意していた柴田勝家がそれを密告しました。信長は仮病を装って信勝は見舞いに来たところを信長家臣たちに暗殺されました。

享年21歳ともいわれますが、生年が不明のため正確な年齢は分かっていません。信勝の墓所は桃巌寺(愛知県名古屋市)にあります。

また信勝の息子・坊丸(津田信澄)は助命され、その後信長に仕えました。