1611年~1673年(享年70歳)
保科 正光(ほしな まさみつ)は、徳川家に仕えて信濃高遠藩の初代藩主となった人物です。
2代将軍・徳川秀忠から信頼され、秀忠の庶子である保科正之を養子に迎えました。
保科正光の生まれ
永禄4年(1561年)、甲斐武田家臣・保科正直の長男として生まれました。天正10年(1582年)に武田家が滅亡すると、武田勝頼へ人質として差し出されていた正光は救出され、以後は徳川家康に仕えて高遠城を預かりました。
以降、正光は天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いや天正18年(1590年)の小田原征伐などに参戦し、家康の関東移封に伴い下総国多胡に1万石を与えられました。
高遠藩主
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍として遠江浜松城を守備し、戦後は越前北之庄城に城番して法興寺の寺規定めなど内政を行った功績から旧領を戻されて高遠藩2万5,000石の初代藩主となりました。
正光は真田昌幸の娘を正室に迎えていましたが、慶長15年(1610年)に早世しました。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では徳川軍として淀城を守備しましたが、翌年の夏の陣では天王寺の戦いで首級14を挙げる手柄を立て、2代将軍・徳川秀忠から賞賛されました。
養子・保科正之
元和3年(1617年)、正光は秀忠の庶子・幸松丸(保科正之)を養子として迎え、元和4年(1618年)には秀忠の上洛に従った功績として、筑摩郡5,000石を加増されて3万石の大名となります。
正光は異母弟の保科正貞を養子としていましたが、正貞と不仲であったため廃嫡し(一説には正之に遠慮して家督を譲ったとも)、同じく弟で養子の保科正重も夭逝していたことから、保科家の家督は正之に継がせました。正光の墓所は建福寺(長野県伊那市)にあります。