1542年~1601年(享年60歳)
保科 正直(ほしな まさなお)は、甲斐武田家に仕えた人物です。
武田家滅亡後は徳川家康に仕えて転戦し、下総国多胡に1万石の領地を与えられました。
保科正直の生まれ
正直は天文11年(1542年)に保科正俊の子として生まれました。保科家は諏訪郡の高遠家家臣でしたが、正俊の頃に甲斐武田家の直臣となりました。
正直は保科家の家督を継ぎましたが、武田譜代家老の内藤昌秀に実子がなかったため、正直の実弟は内藤家に養子として差し出されて内藤昌月と名乗りました。
武田家滅亡
天正10年(1582年)、織田・徳川連合による甲州征伐で、正直は飯田城(長野県飯田市)に籠城し、織田信忠の攻勢を受けて高遠城へ逃亡しました。
高遠城では仁科盛信と籠城していましたが、落城後は弟の内藤昌月を頼って上野箕輪城へ逃れて生き延びました。
武田家滅亡後は昌月と相模の北条家に属し、天正壬午の乱で正直・昌月兄弟は北条軍の別動隊として参戦して高遠城を奪取しました。
その後、甲斐で徳川家康が勢力を拡大させていくと、正直らは依田信蕃、木曾義昌など信濃国衆と徳川方に転じました。
徳川臣下
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは木曾義昌が豊臣秀吉に寝返ったため、正直は敵の抑えとなり家康を撤退させ、翌年真田昌幸との第一次上田合戦にも従軍しました。
天正18年(1590年)の小田原征伐に参加した後、正直は家康の関東入部に伴い、下総国多胡に1万石を与えられます。
慶長6年(1601年)に正直は高遠城で亡くなり、家督は保科正光が継ぎました。正直・正光の墓所は建福寺(長野県伊那市)にあります。