七曜紋

九鬼嘉隆
1542年~1600年(享年59歳)
九鬼嘉隆(くき よしたか)は、織田信長、豊臣秀吉に仕えた戦国時代の武将です。

九鬼水軍を率いていた嘉隆は、当時最強といわれた毛利水軍を打ち破るなどの功績を挙げ、織田水軍の頭領として活躍しました。




九鬼嘉隆の家紋

七曜紋
九鬼家の家紋は七曜紋です。

7つの丸は星を意味し、真北にあって動かない北極星とそれを囲んで回る北斗七星は古くから信仰の対象とされていました。

また、星は狩猟者や航海士にその位置を示す重要な目印でもあります。水軍を率いていた九鬼家にとっては、航海の安全や北斗信仰を示す象徴的な意味もあったと考えられます。

九鬼嘉隆の生まれ

天文11年(1542年)、志摩国(三重)英虞郡にあった波切城(なきりじょう)で嘉隆は生まれました。父親は九鬼定隆で、嘉隆は三男として生まれます。

九鬼家が治める城は波切城(三重県志摩市)と田城城(三重県鳥羽市)があり、田城城では定隆の長男・浄隆(きよたか)が生まれています。

天文20年(1551年)に定隆が死去すると、家督は長兄の浄隆が継ぎました。しかし、永禄3年(1560年)に田城城で志摩の地頭との争いが起こり、嘉隆は浄隆を援助していましたが、戦中に浄隆が戦死してしまいます。

嘉隆は浄隆の子・澄隆(すみたか)を支えましたが結果は敗戦に終わり、朝熊山(伊勢市・鳥羽市)まで逃げ延びました。




九鬼嘉隆と織田信長

田城城の敗戦後、嘉隆は織田信長の家臣・滝川一益の仲介により信長と面会します。

永禄12年(1569年)、かつて田城城に進攻してきた志摩地頭の一人・北畠具教を信長が攻めると、嘉隆は水軍を率いて北畠の支城・大淀城を陥落させたため、その功績から正式に織田家の家臣として迎え入れられました。

嘉隆が北畠具教を破ったため、嘉隆と逃げ延びた甥の澄隆は田城城に戻りました。しかし嘉隆が信長の下で出世したため、澄隆は当主ではあったものの、九鬼家の実権は嘉隆が握りました。

嘉隆はその後も志摩の地頭を次々に倒していき、志摩国の領有を信長に認められます。天正2年(1574年)に起こった長島一向一揆の鎮圧戦では、嘉隆は滝川一益と共に海上射撃で織田軍を援護して活躍しました。

第一次木津川口の戦い

木津川
木津川(大阪市大正区)

天正4年(1576年)、石山本願寺を攻めていた織田軍の元へ、本願寺の援軍として安芸の毛利軍が瀬戸内の水軍を率いてきました。

この戦いで、毛利軍は毛利水軍・小早川水軍・村上水軍など600隻の船を率い、対する織田軍は嘉隆を総大将として300隻を率いて戦いました。

毛利水軍は焙烙玉、火矢などで織田水軍に攻撃したため大半の船が焼かれ、織田方の武将も多数の戦死者が出るなど、織田軍は大敗します。この戦果により、信長は嘉隆に決して燃えない船を造るよう命じます。

第二次木津川口の戦い

天正6年(1578年)、嘉隆に命じて造らせた6隻の鉄甲船を率いて、織田軍は再び石山本願寺に攻め込みます。本願寺が再び毛利に援軍を要請したため、600隻の毛利水軍と織田軍の鉄甲船は木津川沖で海戦となりました。

嘉隆率いる鉄甲船は大筒・大鉄砲を備えており、大きさは縦22メートル・横12メートルあったと「多聞院日記」に記されています。嘉隆は毛利水軍を引き付けて大砲で一斉砲撃する戦術を用い、毛利水軍を打ち破ることに成功しました。

この功績で嘉隆は志摩に加え摂津野田・福島など7,000石を加増され、3万5,000石を領する大名となります。

九鬼嘉隆と豊臣秀吉

鳥羽城跡
鳥羽城跡(三重県鳥羽市)

天正10年(1582年)に本能寺の変で信長が横死すると、嘉隆は信長の次男・信雄に付きますが、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで滝川一益の誘いを受けて秀吉側に寝返りました。

秀吉に仕えた後も水軍の頭領として重用された嘉隆は、答志郡鳥羽を本拠とし、天正13年(1585年)に鳥羽城を築城します。

また、同年に甥の澄隆が死去したため、嘉隆は九鬼家第8代当主となりました。

澄隆の死因は病死とされていますが、一説には嘉隆が家督を奪い取るために澄隆を毒殺したともいわれます。

天正20年(1592年)から起こった文禄の役(朝鮮征伐)でも水軍として参戦しており、沿岸防備を行っていた嘉隆は朝鮮水軍を幾度も退ける戦果を挙げました。

晩年

慶長2年(1597年)、嘉隆は家督を子の守隆に譲って隠居します。慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こると、家督を存続させるため、嘉隆は西軍に、守隆は東軍として参戦しました。

嘉隆は守隆が家康の命令で会津征伐に向かっている間に鳥羽城を奪取しましたが、西軍が壊滅すると、鳥羽城を放棄して三重県鳥羽市にある離島・答志島(とうしじま)まで逃げ延びます。

戦後、守隆は嘉隆の助命を家康に嘆願し、守隆の功績によって了承されました。しかし、嘉隆の家臣・豊田五郎右衛門が九鬼家の行く末を案じて自決するよう嘉隆に促したため、嘉隆は助命の報せを聞く前に亡くなりました。

それを知った守隆は激怒して豊田を処刑しましたが、嘉隆の首級は家康のいる伏見城に送られ、胴体は嘉隆が亡くなった洞仙庵(どうせんあん)に葬られました。答志島には嘉隆の首塚と胴塚が残されています。

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