1540年~1610年(享年71歳)
尼子 義久(あまご よしひさ)は、出雲国の戦国大名です。
戦国大名・尼子家最後の当主で、第二次月山富田城の戦いで毛利元就に敗北し、毛利家の傘下となりました。
尼子義久の生まれ
義久は天文9年(1540年)、出雲国(島根)の戦国大名・尼子晴久の次男として生まれました。幼名は三郎四郎(さぶろしろう)といい、元服時に将軍・足利義輝より一字を賜って義久と名乗ります。
永禄3年(1560年)、父・晴久が急死すると義久は尼子家当主となりました。
雲芸和議(うんけいわぎ)
晴久の急死で尼子家が動揺している最中、晴久の死を察した安芸の大名・毛利元就は尼子家の治める石見へ侵攻してきました。
元就はこれまで忍原崩れ、降露坂の戦いで二度石見銀山を獲得すべく石見へ侵攻していましたが、晴久によって撃退されていました。
三度目の毛利軍の侵攻を受けた尼子家でしたが、そこへ将軍・足利義輝の仲介により、和平交渉が提案されます。
義久は当時、尼子家中で起こっていた家臣団の不満や内部抗争を調停させることに追われていたためか、毛利家との早期和睦を望みました。
これに対し、元就は尼子家が石見国へ干渉しないことを和平の条件として求めます。最終的に義久が元就の和睦条件を了承したため和睦は結ばれましたが、この同盟が尼子家の崩壊へ繋がっていきます。
尼子家崩壊
義久が雲芸和議を結ぶと、石見を守護していた尼子家の諸将や尼子方の国人は立場を失いました。
これにより石見の前線は崩壊し、尼子家の支城・刺賀岩山城は毛利軍によって落とされ、城主・多胡辰敬は自刃しました。こうした状況から、西出雲の有力国人衆らも次々に毛利方へ離反していきました。
石見への侵攻で優勢となった元就は、和議を破棄して永禄5年(1562年)から尼子家の拠点・出雲へ侵攻を始め、毛利家に寝返った西出雲の国人らの支援を受けて攻め込んできました。
しかし、義久が毛利家への対策として北九州の大名・大友宗麟と同盟を結んでいたことや、更に東出雲・伯耆・備中・美作で尼子方の勢力が毛利家に反発したことから、毛利軍の侵攻は思うように進まず、尼子家の居城を攻めるまでに4年の歳月がかかりました。
第二次月山富田城の戦い
永禄8年(1565年)、遂に毛利軍によって尼子家の居城・月山富田城が包囲されます。
毛利軍は富田城へ総攻撃を仕掛けたものの、城は堅牢で城兵の士気も高く、毛利軍は日に日に損害を受けたため、元就は作戦を変えました。
先年、毛利軍は尼子軍の糧道となっていた江美城(鳥取県日野郡江府町)を陥落させていたため、元就は兵糧攻めを行い、富田城では次第に兵糧が不足して士気も衰え、尼子家の家臣や重臣までも続々毛利軍へ降伏していきました。
籠城戦を維持できなくなったことで、最終的に義久も元就に降伏し、月山富田城が毛利軍に開城されると、義久は安芸円明寺に幽閉され、戦国大名としての尼子家は滅亡しました。
尼子義久の最期
天正17年(1589年)、義久は元就の孫・毛利輝元から安芸国志道に居館を与えられ、後年は出家して「友林」と名乗りました。
慶長15年(1610年)に義久は死去し、毛利家の意向によって、義久の甥・尼子元知が尼子家の家督を継ぎました。
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