武田菱

武田勝頼
1546年~1582年(享年37歳)
武田 勝頼(たけだ かつより)は、戦国大名・武田家の当主です。

武田信玄の跡を継いで武田家当主となりましたが、長篠の戦いで織田・徳川の連合軍に敗れ、武田家は滅亡しました。




武田勝頼の生まれ

勝頼は天文15年(1546年)に甲斐国(山梨)の大名・武田信玄の庶子、四男として生まれました。

母は武田家と同盟関係にあった信濃国諏訪領主、諏訪頼重の娘・乾福院殿です。

武田家の正嫡は武田義信でしたが、義信が進言への謀反の疑いで廃嫡されると、信玄の後継者となります。

武田家当主

永禄8年(1565年)、勝頼は織田信長の養女・龍勝院と婚礼し、永禄10年(1567年)には嫡男・武王丸(信勝)が生まれます。

元亀4年(1573年)に信玄が死去すると、武田家を継承して20代当主となりましたが、今まで守勢だった信長・徳川家康の連合軍が甲斐国周辺まで侵攻してきました。

勝頼も領土拡大を目指し、天正2年(1574年)に織田領にあった東美濃(岐阜県南東部)を攻め、明知城を陥落させました。

その後、徳川領の遠江(静岡県)にも侵攻し、高天神城を陥落させて東遠江を平定させました。




長篠の戦い

長篠・設楽原決戦場跡
長篠・設楽原決戦場跡(愛知県新城市)

天正3年(1575年)、勝頼は三河国へ侵入し、奥平信昌が籠城する長篠城を攻撃します。奥平信昌は武田家に従属していましたが、後に、家康に従属して離反していました。

勝頼は1万5,000の兵力を率いて長篠城を攻めましたが、援軍として織田・徳川の連合軍3万8,000が駆けつけます。

連合軍は武田軍の攻撃に備えて馬防柵、陣城の構築を始め、勝頼は長篠城の抑えとして3,000の兵を置き、主力1万2,000の兵を率いて連合軍と対峙します。

兵力差が大きいこと、敵に備えがあることに感づいた信玄以来の重臣たちは勝頼に一度撤退することを進言しましたが、勝頼は織田・徳川との決戦を選びました。

武田軍は士気は高かったものの、信長が用意させた3,000丁の鉄砲隊攻撃などの新戦法を受けて連合軍の前に総崩れとなり、勝頼は伊那郡まで退却し、甲府へと帰還しました。

甲越同盟・甲佐同盟

天正3年(1575年)に将軍・足利義昭によって武田(甲斐)・北条(相模)・上杉(越後)の和睦が呼びかけられました。領国再建を図っていた勝頼にとってはまたとない機会であり、勝頼は和睦を承諾します。

しかし、上杉謙信は武田との和睦には反対しませんでしたが、北条家との和睦は拒否しました。北条家との和睦は成立しなかったものの、武田家と上杉家は和睦を結びます。

天正6年(1578年)には常陸国の戦国大名・佐竹義重と同盟を結び、義重を介して信長に和睦を持ちかけます。和睦を成立させるため、勝頼は武田家に人質として滞在していた信長の息子・信房を織田家に返還しました。

しかし信長は勝頼の意を黙殺したまま朝廷に「勝頼は朝敵である」と認めさせ、天正10年(1582年)に武田領へ攻め込みます。

甲州征伐・天目山の戦い

天正10年(1582年)、織田、徳川、北条など甲斐国周辺の大名が侵攻してくると武田軍は八方塞がりの状態になり、武田家臣たちも連携が取れず、次々に敗退していきました。

勝頼は家臣・小山田信茂の居城である岩殿城に逃げようとしましたが、信茂が織田方に投降すると決めたため、勝頼は逃げ場を失います。

勝頼は追手の滝川一益に追われて天目山棲雲寺を目指したものの、その途上で追手に捕まり、嫡男の信勝や正室の北条夫人と共に自害しました。

武田勝頼の墓・子孫

勝頼の墓は、山梨県甲州市の景徳院にあります。墓は徳川家康によって建てられたもので、信勝や北条夫人と共に祀られています。

勝頼と息子の信勝が亡くなったために武田家は一度滅亡しましたが、その後は勝頼の兄・海野信親の子孫が生き延びたことで、江戸時代に武田家が再興されました。

武田勝頼の人物評価

侍
武田家の歴史について書かれた「甲陽軍鑑」には、勝頼の印象について「強すぎたる大将」と記されています。上杉謙信や織田信長も勝頼の武勇を書状で褒め称え、謙信は信長に、勝頼は強すぎるため警戒するようにと注意しています。

勝頼が武田家の家督を継承した当時、信長は勝頼を軽く見ていました。しかし勝頼による東美濃への侵攻が始まると、予想外の強さに勝頼を勇猛な将として認めざるを得ず、甲州征伐の際には息子の信忠に、勝頼に向かって過渡な前進はしないよう忠告したそうです。

勝頼の死後、信長は「勝頼は強いが、運がなかった」と言い、また勝頼の家臣達も、勝頼は勇猛果敢であるものの、慎重さに欠けた性格であるとかねてより案じていました。

謙信や信長、武田家家臣から見た勝頼の印象からみると、勝頼は一人の武将としては有能だったのでしょうが、大将には向かない性格であったと思われます。

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