1509年~1593年(享年83歳)
保科 正俊(ほしな まさとし)は、甲斐武田家に仕えた人物です。

槍の名手であったことから戦国の三弾正に数えられ、高坂昌信の「逃げ弾正」、真田幸隆の「攻め弾正」、正俊は「槍弾正」と称されました。

保科正俊の生まれ

高遠城の本丸跡
高遠城・本丸跡(長野県伊那市)

正俊は永正8年(1511年)、信濃国人・保科正則の子として生まれました。

高遠城を領していた高遠家は、はじめ信濃国衆の高遠頼継に属し、武田信玄による信濃侵攻に抵抗していましたが、天文21年(1552年)頃に信玄に降伏して武田家に臣従しました。

川中島の戦い

侍
天文22年(1553年)の第一回川中島の戦いで、正俊は上杉謙信配下の高梨頼治に追い詰められた真田幸隆を救出するなど武功を挙げ、武田軍の信濃先方衆として120騎の軍役を任されました。

生涯の戦功三十七度と呼ばれる正俊の活躍から信玄・勝頼の二代にわたって信頼されており、その勇猛さから「槍弾正」と称されました。

武田家滅亡

その後、正俊は子の正直に家督を譲って隠居しましたが、天正3年(1575年)に長篠の戦いが起こり勝頼が大敗します。

天正10年(1582年)の甲州征伐の際、正俊は飯田城(長野県飯田市)を守備していましたが、落城後は信濃国水内郡の氏族・大日方家を頼って逃亡しました。

武田家滅亡後、旧武田遺領を巡って天正壬午の乱が起こると、北条家に仕えていた正直・昌月兄弟が高遠城を奪回しましたが、その後北条家が徳川家に敗北すると、徳川家康に仕えました。

その後、正直は家康の妹を娶って徳川と外戚関係になり、保科家は本領を安堵されます。

鉾持除(ほこじよけ)の戦い

天正13年(1585年)、正直が第一次上田合戦に参加するため高遠城を留守にする間、信濃松本の小笠原貞慶が5,000の兵を率いて高遠に攻め入ってきました。

高遠城にいた78歳の正俊は留守隊100の兵と付近の農民300人を動員し、小笠原軍の上に大岩や大木を落とす、混乱状態となったところを鉄砲隊に攻撃させる指揮を取って50倍の兵力を撃退し、家康は正俊に銘刀と感状を送ってその功績を讃えました。

その後、孫の保科正光は徳川秀忠に厚遇され、秀忠の隠し子である保科正之の養育を任されるなど幕府で重用されていく中、 文禄2年(1593年)に正俊は生涯を閉じました。