1501年?~1563年
多田満頼(ただ みつより)は、甲斐武田家に仕えた武将です。
武田二十四将の一人で、「甲斐国志」には「満頼」の諱がありますが、本人は「三八郎」または「三八」と名乗っていたとされています。
生涯
満頼は美濃国の生まれで源頼光の孫の多田頼綱、または源満季の子孫といわれ、弓矢修行のため甲斐国に渡り、武田信虎に仕えて足軽大将となったといわれています。
武田信玄にも仕えた満頼は戦場で29の武功を挙げたことから、原虎胤、横田高松、小幡虎盛、山本勘助と共に五人衆と称され、全身に27か所の傷があったといわれます。
天文16年(1547年)信濃国佐久郡・志賀城攻めに参戦した満頼は、関東管領・上杉憲政の援軍と小田井原の戦いで板垣信方らと功を挙げ、翌年には信濃守護・小笠原長時との戦いで活躍し、信玄から感状を受けました。
永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いの頃、満頼は既に病床に伏しており息子が参戦しましたが、永禄6年(1563年)に病没しました。
子孫
満頼には新八郎、昌俊、新蔵、久蔵の息子がおり、長男・新八郎は元亀元年(1570年)に病没し、新八郎の息子は徳川家康に仕え旗本になったとされています。
次男・昌俊は天正10年(1582年)に武田家滅亡に伴い殉死した説と、武田家を出奔して相模の北条家に仕え、永禄10年(1567年)に武蔵国岩槻(さいたま市岩槻区)で戦死した説があります。
また昌俊の子・昌綱は叔父の武田譜代家老・土屋昌次に養育されて徳川家の旗本になったといわれ、新蔵は天正3年(1575年)の長篠の戦いで戦死しました。
逸話
鬼退治伝説
信玄が信州攻めで上田方面の砦を落した際、満頼は信濃虚空蔵山砦(長野県上田市塩尻)の警護を命じられました。
この地には地獄の妖怪・火車鬼が出現するといい、兵たちは怯えていましたが、ある夜、いつものように満頼が見張りをしていると火車鬼が現れました。
満頼が駆けつけて素早く火車鬼を斬りつけると、火車鬼は悲鳴を上げて逃げたといい、それ以来火車鬼は現われなくなったといいます。
この話は火付け強盗を働く賊を満頼が退治した話が武勇伝となり、鬼退治伝説になったものといわれています。
鬼の湯伝説
全身に27か所の傷があったという満頼は、湯治のため武州から湯村温泉(兵庫県美方郡)を目指している途中、天目山の麓で妖怪に髪を掴まれ、すぐに頭上を刀で斬り払いました。すると9尺(約3m)ある片翼が落ちてきて、妖怪は逃げ去りました。
その後満頼が湯治をしていると、ある日体に刀傷のある法師が温泉に入ってきたので、満頼が「その怪我はどうされました?」と尋ねると、「この傷は、昔、多田三八郎(満頼)という者と戯れて負ったものです」と答えました。
法師の正体が天狗と気付いた満頼が「三八、ここにあり」と刀を抜くと法師は驚いて逃げたということから、湯村温泉には鬼の湯伝説が残っています。