1544年~1575年(享年31歳)
土屋 昌続(つちや まさつぐ)は、甲斐武田家に仕えた武将です。

武田二十四将の一人で、諱は「昌次」でも知られますが、文書上では本人は「昌続」と名乗っていたとされています。

生まれ

侍
昌続は天文14年(1545年)頃に武田家の譜代家老・金丸筑前守(虎義)の次男として生まれました。

父・筑前守は武田晴信(信玄)の守役を務めており、昌続も奥近習六人衆(幹部候補生)の一人として、信玄に仕えました。

永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いでは信玄の本陣を守備し、やがて上杉本陣が迫ってくると昌続は信玄の傍を離れず戦ったことから、功績として侍大将に任命されます。

また、甲斐の名門である土屋家の名跡を継ぐことを許されて金丸姓から土屋姓に改姓しました。

生涯

長篠・設楽原決戦場跡
長篠・設楽原決戦場跡(愛知県新城市)

侍大将となった後、昌続は武将としてだけでなく信玄側近の奉行衆としても働き、駿河侵攻、西上野侵攻の際は新たに獲得した地域で取次役(外交官)として国衆と交渉を行うなど、領内の政治に関する重要な仕事を任されました。

元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いでは、徳川軍の鳥居信元と一騎打ちで戦い首級を挙げましたが、その後信玄が上洛前に病没すると昌続は殉死を願い出て、武田四天王の高坂昌信に説得され思い止まります。

信玄没後は武田勝頼に仕えて天正3年(1575年)の長篠の戦いに出陣しましたが、織田軍の馬防柵を突破しようとした昌続は、三重柵の二重まで突破したところで鉄砲隊の一斉射撃を受け戦死しました。