平四つ目結

平四つ目結
1593年~1637年
京極 忠高(きょうごく ただたか)は、若狭小浜藩主・京極忠高の息子です。父の後を継いで小浜2代藩主となった後、出雲松江藩主となりました。




京極忠高の生まれ

京極忠高は文禄2年(1593年)、京極高次の庶長子として生まれました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで父・高次は西軍に付き人質として忠高を大坂城へ送りましたが、その後東軍に大津城に籠城しました。戦後、高次は若狭小浜藩主となりましたが、慶長14年(1609年)に高次が死去すると、忠高は2代藩主(9万2,000石)となりました。

出雲松江藩主

慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣では、義母・初(常高院)が仲介となって、京極家の陣で豊臣家との講和が行われます。また、講和条件で大坂城の外堀を埋める作業の工事奉行となり、寛永元年(1624年)に越前国敦賀郡が加増されました。

京極家は将軍家と縁戚にあったことから諸大名の中でも信頼されており、寛永11年(1634年)に出雲、隠岐二ヶ国へ加増転封となって出雲松江藩主(26万石)となり、安芸の大名・毛利家への押さえとして配置されます。

晩年

正室・初姫との関係はあまり良くなかったようで、寛永7年(1630年)に初姫が死去した際、忠高は臨終に立ち会わず相撲見物をしていたといわれます。そのため、舅である徳川秀忠や3代将軍・家光の怒りを買い、初姫の葬儀は秀忠によって行われ、忠高を含む京極家の関係者は葬儀への臨席を許可されませんでした。

寛永14年(1637年)、忠高は45歳で死去しましたが嗣子がなかったため、京極家は改易されかけます。しかし、それまでの徳川家に対する京極家の忠義を考慮されて、甥の高和が播磨龍野(6万石)の所領を与えられて大名の存続を許されました。