1504年~1581年(77歳)
京極 高吉(きょうごく たかよし)は、北近江の守護大名・京極高清の息子です。江北の勢力争いで浅井家に敗れてからは、足利将軍家に仕えました。
京極高吉の生まれ
京極高吉は永正元年(1504年)、京極高清の次男として生まれました。高吉は父に寵愛されて次期当主に推薦されていましたが、兄・高延(高広)が反対したため家督を争いました。
高延は近江の国人衆・浅見貞則と家臣の浅井亮政と共に高吉に対抗し、兄に敗れた高吉は父と共に尾張へ逃亡します。
こうして高延は京極家当主となりましたが、後に高延も浅井亮政と対立して追放され、京極家は衰退していきました。
浅井家との対立
追放された高吉は南近江の大名・六角家の支援を受けて高延・浅井亮政と争いましたが、やがて高延も亮政に反旗を翻します。
六角家と京極家を敵に回すことを不利と思ったか、亮政は高清に謝罪し、高清と高延を北近江に迎えて領主に復帰させました。
しかし、事実上は浅井家の傀儡であったため、高吉だけは北近江には留まらず、一時13代将軍・足利義輝の近臣として仕えました。
晩年
永禄3年(1560年)、高吉は権力奪回を目指して六角義賢と手を結びます。その後浅井長政と戦うものの大敗し、北近江の支配権を失いました。
浅井家に敗北した高吉は再び足利家に仕え、永禄8年(1565年)に義輝が暗殺されると、義輝の弟・足利義昭に仕えました。
しかし、義昭が織田信長と対立すると高吉自身は近江に隠居し、子の小法師(京極高次)を信長に人質として差し出し、子法師はそのまま信長に仕えます。
天正9年(1581年)、安土城に高吉は妻・京極マリアと共に移住し、キリスト教徒の洗礼を受けましたが、その数日後に死去しました。