武田菱

武田信玄
1521年~1573年(享年53歳)
武田信玄(たけだ しんげん)は甲斐国の戦国大名です。甲斐を拠点に上洛を目指して数々の戦に参戦し、「戦国最強の武将」として織田信長にも恐れられていました。信玄は戦上手なだけでなく、内政にも優れた人物として知られています。




武田信玄の家紋

武田菱
武田家の家紋は武田菱です。元々は「割菱紋」と呼ばれていましたが、江戸期に描かれた武田信玄の家紋としてよく使われたため、武田菱と呼ばれるようになりました。

武田信玄の生まれ

信玄は1521(大永元)年、甲斐国(山梨)守護・武田信虎の子として生まれました。幼名は太郎といい、大永3年(1523年)に兄の竹松が夭逝したため、武田家の嫡男となり16歳で元服します。

天文10年(1541年)、信玄は父・信虎を追放し、武田家の家督と甲斐国守護を相続しました。信玄が父を追放した理由には諸説ありますが、「甲陽軍鑑」によれば信虎は信玄の弟・信繁を可愛がっていたため、信玄は弟が家督相続することを阻止しようと、信虎を追放したとされています。

信虎と信玄の不和

武力で甲斐を統一した信虎と、軍略を学び、論理的であった信玄は気が合わず、信虎は次第に信繁を可愛がるようになっていったようです。ただ、そうした理由だけで信玄が父を追放しようとしたり、武田家の家臣達がまだ若い信玄側に付くことは考えにくいともいわれています。

信虎は甲斐統一を成し遂げるほど戦上手ではあったものの、戦には莫大な軍事費がかかることから、甲斐は毎年のように飢饉に陥っていました。

また、信虎は権力を振りかざし、諫言した重臣を殺害するなど酷薄な面もあったようで、その行いを良く思っていない家臣達は信玄を立てて信虎を排除しようとする動きもあったようです。

やがて信虎に対する領民や家臣達の不満が高まっていくことを察した信玄は、その不満を鎮めるため、自らが甲斐国守護になる道を選んだともいわれています。




人事・産業の発展

合議制

甲斐国主となった信玄は、まず人事の刷新、武田法度の制定、産業の振興を行いました。戦を行うときには合議制を採用し、独断での判断は行わず家臣達と相談しあうなど、信虎を反面教師とする姿勢で戦に臨みました。

多数決で物事を判断しない合議制は徳川家康も採用しており、江戸幕府の政治にも取り入れられています。

信玄堤

信玄堤
信玄堤(山梨県甲斐市)

信玄が甲斐国守護を相続した当時、国は作物が育たない貧弱な土地で、笛吹川と釜無川が流れているものの、度々氾濫で水害が起こり、護岸工事も上手く進んでいませんでした。そこで信玄は笛吹川と釜無川の合流地点に大堤防を造らせ、約20年の歳月をかけて完成させました。

この大堤防は「信玄堤」と呼ばれ、川寄りに2kmの石堤が築かれ、水制(すいせい)、霞堤(かすみてい)などの治水技術が用いられています。

信玄堤に採用されている治水技術は後の甲州流治水の基となっており、堤防が築かれたことによって洪水被害は緩和され新田開発が進み、安定した農業生産が開始されていきました。

鉱山の採掘

水晶
農業生産拡大の計画と同時に、信玄は山岳資源の採掘事業も起こします。甲斐国内には金や鉱石がとれる山が複数あり、その中でも黒川金山からとれた金は高く評価され、武田家の重要な軍資金となりました。

また、信玄は合戦に挑む際にいつも水晶玉の数珠を携えていたといわれ、肖像画や信玄像でも数珠を持った姿が見られます。また、戦で使う軍配にも水晶が埋め込まれていたそうです。

水晶は古来から霊石と考えられ、魔を払う力を持つといわれています。神仏への信仰が厚かった信玄は、戦国大名で最もパワーストーンを愛用していた武将だったのかもしれません。

信濃国平定・川中島の戦い

八幡原史跡公園
八幡原史跡公園・一騎打ち像(長野県長野市)

信玄の政策によって、甲斐の経済力は信虎時代より強固なものへ変わっていき、地盤を固めた信玄は、天文11年(1542年)より信濃国(長野県)へ侵攻を開始します。

天文16年(1547年)には分国法(領国内を統治するための法律)である「甲州法度之次第」を制定し、信濃国をほぼ平定させました。

天文22年(1553年)からは越後の大名・上杉謙信と北信濃をめぐって度々川中島で戦いましたが、弘治3年(1557年)には将軍・足利義輝の命令で信玄が信濃守護を兼任しました。

川中島の戦いは5度にわたって行われましたが、永禄11年(1568年)に室町幕府に就いた足利義昭を通じて、武田家と上杉家は和睦を結びます。

三方ヶ原の戦い

1572(元亀3)年、信玄は足利義昭からの織田信長討伐令に応じて、徳川家の治める三河へ向かいます。戦いは武田軍の優勢に進んでいたもしたが、信玄は三方ヶ原の戦いに参陣した頃から度々喀血を起こすようになりました。これにより武田軍の侵攻は一旦停止します。

元亀4年(1573年)、三河に侵攻していた信玄は野田城を陥落させた後に倒れ、三河設楽郡にあった長篠城で療養に入ります。信玄の病状から三河への侵攻は中止になり、甲斐に撤退しましたが、その途上で信玄は死去しました。

信玄の死因は病死説が有力とされ、野田城の戦いを含む三方ヶ原の戦いの最中に喀血を起こしていたことから、胃がん、食道がんなど消化器系の持病があったといわれています。




武田信玄の城・躑躅ヶ崎館

武田神社
武田神社(山梨県甲府市)

1521(大永元)年、信玄の父・信虎が築いた武家館で、信玄、勝頼と三代の居城となりました。外濠、内濠、空濠に囲まれた三重構造の館で、日常の居住空間、連歌会や歌会が催される会所などもありました。

躑躅ヶ崎館は堀や石垣、天守を備えた城には改築せず、武家館のままで政務を行っていました。信玄が躑躅ヶ崎館を改築しなかったのは、国を守り支えるのは人民の力であり、堅牢な城ではないと考えていたからだといわれています。

躑躅ヶ崎館には「甲州山」と呼ばれる信玄専用のトイレがあり、お風呂の残り湯を使う水洗式トイレでした。広さは京間六畳あり、万が一の敵の襲撃に備えて広大なトイレを作ったといわれています。

甲州山には芳香剤が置かれ、出入り口には書類箱が置いてありました。信玄は仕事のアイデアを集中して考えたいとき、甲州山にこもって考え事をしていたようです。

躑躅ヶ崎館の跡地には武田神社が建てられ、御祭神として武田信玄が祀られています。

武田信玄の兜

武田信玄の兜
信玄の兜というと、兜全体が白い毛で覆われたものがドラマや映画などでよく見られます。乱髪兜と呼ばれる変わり兜の一種で、信玄の兜と伝わるものは諏訪法性兜(すわほっしょうのかぶと)と呼ばれています。

長野県・諏訪大社に祀られている諏訪明神を表す兜で、軍神として武将の信仰を集めていた神様であることから、信玄も諏訪明神を信仰していました。

ただし、信玄が諏訪法性兜を身に着ける姿が有名になったのは江戸時代からの歌舞伎の影響で、実際に信玄が合戦中に被っていたことを示す史料は見つかっていません。

神奈川県・寒川神社には小田原城へ攻め込む戦勝祈願として信玄が奉納した六十二間筋兜(ろくじゅうにけんすじかぶと)が残されていますが、この兜は鉄板を合わせて作られた質素なものです。

神仏を信仰していた信玄が「六十二間筋兜」より華美な装飾の「諏訪法性兜」を被るとは考えにくく、実際の信玄はもっと質素な兜を身に着けていたともいわれています。

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