1567年?~1615年(享年49歳)
真田幸村(さなだ ゆきむら)は、武田家、織田家、上杉家、豊臣家に仕えた戦国時代の武将です。幸村の名で知られていますが、直筆の書状で「幸村」の名が使われているものはなく、真田信繫(のぶしげ)と名乗っていました。
幸村の名前は江戸時代に広まった軍記物語の影響で広まったと考えられており、江戸時代以降は「幸村」の呼び方が定着していたため、江戸幕府が編纂した家系図にも「幸村」と記されています。
真田幸村の家紋
真田家の家紋は六文銭です。六文銭は仏教では六道銭、冥銭といわれ、三途の川の渡し賃を意味しています。
六文銭の家紋は「不惜身命」(身命を惜しまず戦う姿勢、決意)を表す家紋です。
真田幸村の生まれ
真田幸村は永禄10年(1567年)~元亀元年(1570年)の間に生まれました。父は信濃国(長野)小県郡の国衆・真田昌幸で、武田信玄に仕えていました。
天正10年(1582年)に織田・徳川連合軍に侵攻された武田家が滅亡すると、真田家は織田信長に恭順し、上野国吾妻郡・利根郡、信濃国小県郡の所領を許されます。
このとき関東管領として上野国群馬郡にあった厩橋城(まやばしじょう)に滝川一益が入城し、幸村は人質として厩橋城に入ります。しかし、同年6月に本能寺の変が起こり、信長が横死しました。
幸村の名前の由来
軍記物語で信繫ではなく幸村の名が使われたのは、名前にエピソードを持たせるためと考えられます。幸村の「幸」は真田家の本家である海野家の通字(代々、名に継承される漢字)であり、「村」は徳川縁者の粛正に使われた刀・「村正」が由来とされています。
村正は妖刀であるという噂もあったことから、物語の登場人物としてエピソードのある「幸村」という名前が生み出されたものと考えられています。
上杉家と幸村
天正13年(1585年)、幸村の父・昌幸は徳川家康に従属しており、所領の沼田を北条家に渡すよう命じられましたが、昌幸はこれを拒否します。その結果、真田家と徳川家の間で戦が起こりました(第一次上田合戦)。
真田家を存続させるため、昌幸は上杉景勝を頼り、上杉家の庇護を受ける代わりに、幸村は人質として海津城に入りました。その後、幸村は上杉家の居城・春日山城で景勝に対面します。
景勝は幸村を好意的に迎え入れており、上田領全体で千貫の高禄を与えるなど、人質というよりは客将として幸村を迎えました。
豊臣政権時代
第一次上田合戦は真田が勝利し、真田家は上杉家を通じて豊臣家に従属することになりました。
天正14年(1586年)、上杉家で5か月間人質として過ごした幸村は、次に豊臣家の人質として大阪へ向かいます。幸村はこの間に大谷吉継の娘、竹林院を正妻に迎えました。
天正17年(1589年)に秀吉の命で小田原征伐が号令されると、幸村は石田三成の指揮下で忍城攻めに参戦したと伝えられます。
関ヶ原の戦い
秀吉の死後、慶長5年(1600年)に徳川家康が上杉景勝を討伐するため挙兵すると、その間に石田三成が挙兵して関ヶ原の戦いが始まりました。
昌幸と幸村は三成側の西軍に、幸村の兄・信之は本多忠勝の娘を妻に向かえていたため、家康側の東軍につきます。
関ヶ原の戦いで西軍が敗北すると、上田城で徳川秀忠軍を足止めしていた昌幸と幸村は本来死罪になる立場でしたが、信之と忠勝の取り成しにより、紀伊国・高野山、九度山へ蟄居となりました。
九度山での生活
蟄居の間も昌幸、幸村親子は戦に備えて兵術や水練の特訓を重ねていました。また、刀の柄に巻き付ける丈夫な「真田紐」を作り、これを家来に配って全国各地で売り歩かせ、資金集めをしたり、諸国の情勢を探っていたといわれます。
時には兄・信之の仕送りを受けながら真田親子とその家臣たちは何とか暮らしていたといましたが、慶長16年(1611年)に昌幸が再起を果たせぬまま亡くなると、九度山まで付き従っていた真田家臣の多くは信之の家臣になる道を選び、幸村と残った家臣はたった二、三名の者でした。
大阪冬の陣
慶長19年(1614年)、豊臣と徳川の関係が悪化し始めると、豊臣家は戦いに備えて人員を集め、幸村にも参戦を呼びかけます。幸村は国許の上田にいる昌幸の旧臣にも参戦を呼びかけ、嫡男・大助幸昌と共に九度山を脱出して大坂城に入りました。
幸村は大坂城の弱点に当たる三の丸側に「真田丸」と呼ばれる出城を築き、出城に寄り手の注意を引き付けて敵を撃退することに成功したため、その名を天下に知らしめることとなりました。
真田丸は冬の陣の講和条件として取り壊されましたが、幸村は信州十万石を与えるので徳川軍に寝返らないかと本多正純に説得されます。しかし、幸村は豊臣秀頼に恩があると言ってこれを断りました。
昌幸・幸村親子は徳川の脅威であったため、「信濃一国を与える」と再び正純に説得されますが、「例え日の本半分の領土を与えると言われても、私の気持ちは変わりません」と幸村は拒否したといいます。
大坂夏の陣
慶長20年(1615年)、幸村は大坂冬の陣で戦功をあげたことから、夏の陣では豊臣軍の中心人物の一人となります。冬の陣は籠城戦でしたが、夏の陣は野戦となり、豊臣軍は劣勢を強いられました。幸村は撤退を余儀なくされた豊臣軍の殿(しんがり)を務め、追撃を仕掛ける伊達政宗隊を撃破しつつ、撤退を成功させます。
徳川勢に追い込まれた豊臣軍が正攻法で勝つのは難しく、奇襲作戦を取るしかない状態まで追い込まれると幸村は自ら奇襲隊に加わり、真田赤備隊を編成して家康本陣へ突撃しました。突然の奇襲に、流石の家康も死を覚悟して自害を考えたほどでしたが、徳川の大軍を前に奇襲隊は敵に包囲され殲滅してしまいます。
幸村は安居神社(大阪市天王寺区)の境内で傷ついた体を休ませていたところ、越前松平家鉄砲組頭・西尾宗次に発見されて討ち取られました。
家康の本陣に攻め込んだ勇猛な姿が江戸幕府や諸大名家の史料として残され、更に軍記物語の影響で庶民にも広まったことから、幸村は「日の本一の兵(つわもの)」として後世に語り継がれていきました。
真田幸村に関連するおすすめ本