大一大万大吉

石田三成
1560年~1600年(享年40歳)
石田 三成(いしだ みつなり)は、豊臣秀吉に仕えた戦国時代の武将です。秀吉の子飼いとして若い頃から賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いなどに参戦し、五奉行の一人として豊臣政権の行政を担当していました。




石田三成の家紋

大一大万大吉
石田三成の家紋は、大一大万大吉です。この家紋には一人が皆のため、皆が一人のために尽くせば、天下は幸せになるという意味があります。

大一大万大吉の家紋は、鎌倉時代の武将・石田次郎為久も使用していました。為久は、源頼朝・義経の従兄弟に当たる源義仲を討ち取った人物です。

石田三成の生まれ

茶道
三成は永禄3年(1560年)、近江国(滋賀)坂田郡石田村で土豪・石田正継の次男として生まれました。

幼名は佐吉といい、羽柴秀吉に仕える以前は、近江の観音寺で寺小姓をしていました。

あるとき、長浜城主となった秀吉が鷹狩りの帰りに観音寺を訪れ、茶を所望します。そのとき三成は、最初はぬるめの茶を、次にやや熱めの茶を、最後に熱い茶を秀吉に出しました。

ぬるめの茶で喉の渇きを癒し、その後熱い茶を十分味わってもらうという三成の配慮に感服した秀吉は、三成を気に入り自分の小姓としたといわれます。

天正2年(1574年)頃、三成は正継と兄・正澄と共に秀吉に仕官しました。

九州平定

天正10年(1582年)、織田信長が本能寺の変で横死し、秀吉が次の天下人としての地位を固めていき、天正14年(1586年)に秀吉から堺奉行に任じられた三成は、堺を兵站基地として整備します。

翌年の九州平定では兵糧・武具など後方支援を担当していた三成ら官僚の援助もあり、秀吉は短期間で九州平定を終え、三成は博多奉行を命じられて博多の町割りや復興を行いました。

小田原征伐

忍城
忍城(埼玉県行田市)

天正18年(1590年)、小田原征伐で三成は支城の館林城、忍城攻撃を命じられます。忍城攻めの際、三成は元荒川の水を城の周囲に引き込む水攻めを行おうとしましたが、城は思うように陥落しませんでした。

この策略は三成の戦下手を示すものといわれていますが、三成は水攻めに批判的である書状を秀吉に送っており、実際に水攻めを決行させたのは秀吉で、三成は秀吉の命令に従って水攻めを行ったといわれています。

小田原城が降伏・開城しても忍城は落城しませんでしたが、小田原城が落城した報せを受けて降伏を勧められると、忍城も開城されました。

佐和山城主

佐和山城跡
佐和山城跡(滋賀県彦根市)

天正19年(1591年)、三成は近江佐和山19万4千石の城主となります。ただし、当時三成の所領は美濃にあり、佐和山城へ入ったのは蔵入地代官(年貢・租税などを徴収する仕事)としての入城であったと考えられています。

文禄4年(1595年)、秀吉の命令で秀吉の甥・豊臣秀次が謀反の疑いで処刑されると、秀次の旧領のうち、近江7万石が三成の代官地になります。更に近江佐和山19万4,000石の所領を秀吉から与えられ、正式に佐和山城主となりました。

石田三成襲撃事件

伏見城
伏見城(京都市伏見区)

慶長3年(1598年)の秀吉病没後、秀吉の嫡男・豊臣秀頼が家督を継承しました。文治派の三成は武断派の家臣・加藤清正福島正則らと対立しており、五大老の前田利家は両派の仲裁を努めていました。

しかし、慶長4年(1599年)に利家が病没したため、文治派・武断派の対立はいよいよ深まっていきます。同年、三成は加藤清正らの襲撃を受け、伏見城内の自屋敷に立て籠もります。

三成は伏見城内外で敵と睨み合う形となりましたが、徳川家康の仲裁により和談が成立すると、三成は和解の条件として五奉行の座を退き、佐和山城に帰城しました。

後に三成は襲撃事件の中心人物を、家康から豊後国内に6万石を与えられていた細川忠興であると推測しています。

関ヶ原の戦い

関ヶ原古戦場・決戦地
関ヶ原古戦場・決戦地(岐阜県不破郡関ヶ原町)

慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝を討つため会津征伐に向かうと、三成率いる西軍は家康の家臣が守っていた伏見城、伊賀上野城、安濃津城、松坂城などを次々と陥落させていきました。それを知った東軍が西上してくると、両軍は関ヶ原で対峙します。

戦いは、最初は西軍が優勢に進んだものの、西軍、東軍どちらに付くか迷っていた小早川秀秋の陣に家康が鉄砲を撃ち込ませたため、秀秋は東軍について西軍は総崩れになったというのが通説ですが、この説は江戸時代に作成された史料の説で、合戦後すぐに作成された連署書状では秀秋は開戦直後に裏切ったとされています。

秀秋が東軍に与し西軍・大谷吉継の陣へ攻めかかると、吉継を含む平塚為広・戸田勝成ら諸将は討死、夕刻までに西軍は壊滅状態になり、戦いに敗れた三成は敗走中に東軍・田中吉政の追捕隊に捕縛されました。

最期

三成は処刑前に京都の町を引き回されますが、そのとき喉が渇いたので水が飲みたいと言いました。しかし水がなかったため干し柿を渡されます。三成は「柿は痰の毒(体を冷やし、お腹を壊すこと)になるから食べない」と干し柿を受け取りませんでした。

「今から処刑されるのに毒断ちするのはおかしなことだ」と警護の者に言われると、三成は「志を持つものは、最期まで命を大事にするものだ」と言ったそうです。三成は京都に護送された後、家康の命令により六条河原で処刑されました。




石田三成の兜・刀

石田三成の兜
三成は「乱髪兜」という兜を使用していたといわれています。変わり兜の一種で、鬼のような恐ろしさ、力強さが強調されたデザインの兜です。三成の使用していた兜は現存していませんが、三成の愛用していた刀は現存しています。

三成の愛用していた刀は「無銘正宗」で、宇喜多秀家から三成へ贈られたものです。三成襲撃事件の際、その和睦を仲介した家康によって、三成は家康の次男・結城秀康に護衛されながら佐和山城へ帰還しました。

三成は命を賭けて護送してくれた秀康に感謝し、無銘正宗を贈りました。秀康は三成に敬意を表し、「石田正宗」と名付けて終生大切にしたと伝わります。「石田正宗」は東京国立博物館に所蔵されています。

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