六文銭

小松姫
1573年~1620年(享年48歳)
小松姫(こまつひめ)は、本田忠勝の娘で、真田信之の正室です。

小松殿(こまつどの)、稲姫(いなひめ)とも呼ばれ、才色兼備の女性で、はきはきとした男勝りな性格であったと伝えられています。




小松姫の生まれ

小松姫は天正元年(1573年) 、三河国(愛知)の武家・本多忠勝の長女として生まれました。幼名は於子亥(おねい)、または稲姫(いなひめ)と呼ばれます。

天正15年(1587年)、豊臣秀吉の命令で信濃国の武家・真田家が徳川家康の与力大名となると、真田信之と小松姫は婚姻しました。

関ヶ原の戦い

沼田城跡
沼田城跡(群馬県沼田市)

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、小松姫の夫・信之は徳川家康率いる東軍に付き、信之の父である真田昌幸と弟の真田信繫(幸村)は、西軍を率いる石田三成に付きます。

昌幸と信繁は上田城に戻る際に、小松姫が留守を預かる沼田城へ立ち寄りましたが、小松姫は「いくら義理の家族と言えど、信之様から城をお預かりしている以上、城内へ入れることはできません」と昌幸たちの入城を拒否します。このとき小松姫や沼田城にいた家臣、妻女は皆武器を手に、甲冑を身に着けていたといいます。

小松姫は「信之様の留守を伺い、家族の名を騙って城に入ろうとする者は迎え撃って討ち取るべし」と家臣たちに命じ、それを知った昌幸は「流石は武士の妻だ」と小松姫に感嘆し、家臣たちを制して沼田城には入らず、そのまま上田城に戻ったという逸話が残っています。

徳川政権下

関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わり、夫の信之は9万5,000石の大名として存続を許されましたが、西軍に属した昌幸と信繁は紀伊国の高野山、九度山へ流罪となりました。

信之は流罪となって貧しく暮らす昌幸と信繫へ援助を行っており、昌幸からの礼文には、信之だけでなく小松姫に対するお礼が書かれていることから、小松姫も昌幸らを気遣っていたことが窺われます。

慶長19年(1614年)~慶長20年(1615年)に起こった大坂の陣は、信之が病気のため出陣できませんでした。

冬の陣の際、小松姫は信之の重臣・木村綱成に宛てて夫が病気で出陣できないこと、代理で息子たちが出陣することを知らせる書状を書き送りました。

また夏の陣では長男・信吉の家臣である安中作左衛門に宛てて、「信吉は信之様のようにはできないところもあると思いますが、信之様に免じて、どうか信吉にも奉公をお願いします」と記した書状を送っています。

小松姫の最期・墓所

元和6年(1620年)に小松姫は病気を患い、草津温泉へ湯治に出かける途中で亡くなりました。

小松姫の墓は勝願寺(埼玉県鴻巣市)、正覚寺(群馬県沼田市)、芳泉寺(長野県上田市)の三か所に分骨されています。この内、芳泉寺の墓は信之によって一周忌の際に建てられたものです。

その後、信之は小松姫の菩提を弔うため大英寺(長野県長野市松代町)を建立しており、本堂は長野県の文化財に指定されています。