丸に立ち葵

本田忠勝
1548年~1610年(享年63歳)
本多 忠勝(ほんだ ただかつ)は、徳川家康に仕えた戦国時代の武将です。

徳川四天王の一人であり、生涯57回の戦いに参戦したものの、かすり傷一つ追わなかったといいます。戦国最強と名高い武将で、その武勇は味方ならず敵方からも賞賛されていました。




本田忠勝の家紋

丸に立ち葵
本田家の家紋は丸に立ち葵です。

忠勝が使用していたことから別名、本多立葵ともいい、主君の家康も葵門を使用していたことから、忠勝は憚って使用をやめようとしましたが、家康からは使い続けるようにいわれたといいます。

本田忠勝の生まれ

忠勝は天文17年(1548年)、本多忠高の長男として三河国(愛知)で生まれました。

本田家は徳川家の家臣中、最古参である譜代大名の家柄で、忠勝は幼い頃から徳川家康に仕え、永禄3年(1560年)に13歳で元服しました。

姉川の戦い

姉川
姉川(滋賀県)

元亀元年(1570年)に起こった姉川の戦いで、家康は織田信長の軍として参戦し、忠勝も徳川軍として従軍しました。戦いは織田軍が優勢に進んでいましたが、浅井長政の離反によって形勢が逆転し、家康も窮地に追い込まれます。

家康の本陣に迫る朝倉軍1万の兵に対し、忠勝は単騎駆けで突っ込んでいき、それを見た徳川軍が忠勝を救おうとして反撃したため、朝倉軍を打ち崩すことに成功しました。

姉川の戦い以後も忠勝は三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなどの戦に参戦し、どの戦いでも勝利を収めて徳川軍に貢献しました。

その活躍は徳川軍だけでなく敵方にも賞賛され、家康からは「まことに我が家の良将なり」と深く信頼されていました。

伊賀越え

天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が横死すると、堺にいた家康は取り乱し、信長の後を追って京都へ上り自刃しようとします。しかし、忠勝ら家臣たちはそれを諫めて伊賀越えを提案しました。

家康の伊賀越えに付き従った武将は忠勝を含む30名ほどの武将で、道中は落ち武者狩りの一揆を追い払ったり、金品を分け与えるなどして堺から三河への帰還を成功させました。

小牧・長久手の戦い

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで忠勝は留守を命じられていたものの、豊臣秀吉方の16万の大軍に徳川軍が攻められ危機にあることを知り、500の兵を率いて戦場に駆けつけると、豊臣軍の前に立ちはだかりました。

秀吉の家臣・加藤清正らがこの機に忠勝を討ち取るよう進言しますが、秀吉は忠勝の武勇を惜しんで「寡兵で攻めてきた忠勝は、家康を遠ざけるために自らが盾になっている。徳川を滅ぼしたとしても、忠勝は家臣として迎え入れたい」といい、忠勝を討ち取ることを禁じました。

忠勝の気迫に驚いた豊臣軍はそれ以上進撃することができず勝機を逃しましたが、秀吉は忠勝を「東国一の勇士」と賞賛したといいます。

関ヶ原の戦い

岐阜城
岐阜城(岐阜県岐阜市)

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、忠勝は徳川本軍として参戦し、前哨戦である竹ヶ鼻城攻めや岐阜城攻めで僅かな手勢で90以上の首級をあげる武勲を立てます。

東軍勝利後、忠勝は伊勢国桑名(三重県桑名市)10万石に移され、旧領の大多喜は次男の本多忠朝に5万石で与えられました。

桑名藩主となった忠勝は城郭の修築や町割り、東海道宿場の整備などを行い、その手腕から桑名の名手と呼ばれました。

最期

慶長9年(1604年)頃から病気がちになった忠勝は江戸幕府の中枢から退き、慶長14年(1609年)に家督を嫡男・忠政に譲って隠居すると、翌年桑名で死去しました。忠勝が亡くなると、重臣であった中根忠実と梶原忠も殉死し、忠勝の墓の隣に埋葬されました。

忠勝は死の数日前に小刀で自分の持ち物に名前を彫っていたところ、手にかすり傷を負ったといいます。それを見た忠勝は「本多忠勝も傷を負ったら終わりだ」と呟いたそうで、実際にその通りになったことから、自分の死期を悟っていたともいわれています。




本田忠勝の逸話

花形の士

忠勝の武勇は味方だけでなく、諸国の大名からも賞賛されていました。織田信長は忠勝を「花も実も兼ね備えた武将である」と評し、豊臣秀吉は「日本第一、古今独歩の勇士」とその武勇を褒め称えています。

武勇の誉れ高い忠勝でしたが、自分の強さに驕ることもありませんでした。関ヶ原の戦い後、忠勝の武勇を福島正則が賞賛したところ、忠勝は「私の采配が良かったのではなく、敵が弱すぎたのだ」と答えたといいます。

天賦の才

江戸時代後期に書かれた「甲子夜話(かっしやわ)」によると、忠勝は戦場では古今無双の士でしたが、教練としての槍術は苦手だったようです。

そのため、戦場で見せる忠勝の戦ぶりを知らない人からは、忠勝が勇猛といわれているのは意外と思われていたそうです。

「甲子夜話」に書かれていることが事実であったとすると、忠勝は基礎練習は苦手でも、実戦では自分の勘や経験を頼りに、臨機応変に戦える天賦の気質を持っていたと思われます。

蜻蛉切と忠勝の身長

忠勝が愛用した槍は蜻蛉切と呼ばれる槍で、柄の長さが二丈余(約6m)もある大槍でした。

当時一般的な槍の長さは一丈半(約4.5m)だったため、忠勝は大男だったのではないかという説がありますが、忠勝の着用していた兜から考察すると140㎝~160㎝ほどの身長だったといわれています。

当時男性の平均身長は150㎝ほどだったため、忠勝は平均的な体格で、長さ6mもある槍を振るっていたということになります。

義理の息子・信之

本田忠勝の長女・小松姫は、真田信之の正妻でした。関ヶ原の戦いで、信之は小松姫を娶ったため東軍に付きましたが、信之の父、昌幸と弟の信繫(幸村)は西軍に付きました。

戦後、信之は昌幸と信繫の助命を嘆願しましたが、家康はそれを受け入れませんでした。

信行の苦悩を知った忠勝は、昌幸と一緒に家康へ真田親子の助命を嘆願します。重臣たっての願いは流石の家康も断ることができず、渋々昌幸と信繫を処刑せず、流罪としました。

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