抱き杏葉

1569年~1602年(享年・34歳)
立花誾千代(たちばな ぎんちよ)は、立花道雪の娘です。道雪に男児がいなかったため、一時的に立花家当主となりました。武芸に秀でた姫で、腰元女中にも鉄砲の訓練をさせていたといわれます。




立花誾千代の家紋

抱き杏葉
立花家の家紋は抱き杏葉です。抱き杏葉の家紋は豊後大友家が使用していたもので、大友家の一族である立花道雪は同じ家紋を使用していました。

誾千代の夫・立花宗茂は筑後国柳川に領地を与えられた後に祇園守紋(ぎおんまもりもん)という家紋を使用しています。

立花誾千代の生まれ

誾千代は永禄12年(1569年)、豊後国(大分)の大名・大友家の重臣・戸次鑑連(立花道雪)の一人娘として生まれました。誾千代の「誾」の字は「人の話を慎んで聞く」の意味があり、僧侶によって名づけられたといいます。

道雪は後継者となる男児がいなかったため、誾千代が7歳の時に立花城の城督・城領・諸道具の一切を譲り受けました。

天正9年(1581年)、大友家の重臣・高橋紹運の長男である宗茂を道雪が養嗣子に迎え、宗茂は誾千代の婿養子となりました。

柳川入り

天正14年(1586年)岩屋城の戦いで義父・高橋紹運の討ち死に後、翌年九州平定をなした豊臣秀吉から立花宗茂は筑後柳川を拝領し、宗茂は大友家臣から独立して13万石の大名となります。

この際誾千代も居城・立花城を出て柳川入りしましたが、柳川城で宗茂と同居せず宮永に居を構えて暮らしたため、「宮永殿」と呼ばれました。別居の理由は夫婦不和、誾千代が父の墓所がある立花山を離れることを反対したためなど諸説あります。

関ヶ原の戦い

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで宗茂は近江の大津城攻めに参加していましたが、西軍敗北の報せを聞くと柳川に帰り、誾千代も従者を連れて宗茂らを迎えました。

関ヶ原の戦い後、立花家は改易されて宗茂は浪人となり、誾千代は肥後国玉名郡で暮らしました。改易の2年後慶長7年(1602年)から誾千代は病を患い死去しました。誾千代のの菩提寺は良清寺(福岡県柳川市)で、最期の地、熊本県玉名郡には誾千代の伝わる墓があり、墓の形から「ぼた餅様」と呼ばれています。




立花誾千代の逸話

誾千代武勇伝

宗茂が文禄・慶長の役で不在の間、秀吉は誾千代を名護屋城に呼び寄せ手込めにしようとしましたが、それを察した誾千代は名護屋城に参じる際に侍女に鉄砲を持たせ、自らも武装して参内しました。秀吉は誾千代の気迫に恐れをなし、手も足も出なかったといいます。

また、関ヶ原の戦いの際は甲冑を着て居館から出陣し、夫の居城・柳川城へ攻め寄せる東軍を鉄砲隊で威嚇したため、加藤清正は宮永村を迂回して行軍したといわれます。

ただしこの話を裏付ける史料はないため、誾千代の「武勇に長けた姫」というイメージから生まれた創作の可能性もあります。

誾千代と宗茂

宗茂の大名独立後の別居、夫婦間に子がいなかったことなどから、誾千代と宗茂の夫婦仲は不仲であったといわれますが、別居は誾千代が父の墓所を離れることに反対したためともいわれ、宗茂は側室との間にも子をもうけていません。

誾千代は元々立花家当主であったため、婿養子となって自分から家督を譲り受けた宗茂をライバル視していた可能性もあり、宗茂を夫というより兄弟のように思っていたのかもしれません。

また、宗茂が亡くなった誾千代を丁重に弔っていることからも、誾千代と宗茂は不仲というより、一般的な夫婦関係と違って戦友のような関係だったとも考えられます。

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