1563年~1600年(享年38歳)
細川 ガラシャは明智光秀の三女で、細川忠興の正室です。
諱は「たま」(玉/珠)または玉子(たまこ)で、キリスト教に改宗した際に「ガラシャ(伽羅奢、迦羅奢)」の洗礼名を与えられました。
気位が高く激しい性格の持ち主であったともいい、キリスト教に改宗した後は謙虚で忍耐強い性格になったともいわれます。
光秀の娘・たま
たまは永禄6年(1563年)、明智光秀と妻・煕子の間に三女として生まれました。
天正6年(1578年)に織田信長の仲介で細川忠興に嫁ぎましたが、天正10年(1582年)に父・光秀が本能寺の変を起こします。
忠興は光秀から助力を請われましたがこれを拒否し、忠興は謀反人の娘となってしまったたまを丹後国の味土野(京都府京丹後市)に幽閉しました。
天正12年(1584年)、信長没後に覇権を握った羽柴秀吉の取り成しもあり、たまは細川家の大坂屋敷に戻ることを許されます。
キリスト改宗
その後、忠興が九州征伐へ行っている間、たまはキリスト教に改宗しガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意)の洗礼名を授かりましたが、秀吉がバテレン追放令を出していたこともあり、九州から帰国した忠興は受洗したガラシャに激怒し棄教させようとしました。
しかしガラシャが棄教することはなかったため、忠興は「5人の側室を持つ」と言い出すなど、ガラシャに辛く接するようになります。
ガラシャは離縁を考えるようになり宣教師に相談しましたが、キリスト教では離婚は認められなかったことから「困難に立ち向かってこそ徳は磨かれる」とと説き、思い止まるよう説得しました。
関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)に忠興は徳川家康に従って上杉征伐に出陣し、その間に挙兵した石田三成は大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしましたが、ガラシャはこれを拒否します。
やがて三成が実力行使へ屋敷を兵に囲ませるとガラシャは侍女たちを脱出させた後、キリスト教で自害は禁じられていたため、家老の小笠原秀清(少斎)がガラシャを介錯し、ガラシャの遺体が残らぬよう屋敷に爆薬を仕掛け、家臣らも自刃しました。
その後、オルガンティノ神父は細川屋敷の焼け跡でガラシャの骨を拾って堺のキリシタン墓地に葬り、慶長6年(1601年)に忠興は神父に依頼してキリスト教式の葬儀でガラシャを弔いました。
現在の細川屋敷跡にはカトリック玉造教会(大阪市中央区)が建てられ、大聖堂内にはガラシャを描いた画が掲げられています。
戯曲・丹後王国の女王グラツィア
ガラシャの壮絶な最期は、後に宣教師によってヨーロッパに伝えられ、その資料を元に戯曲「強き女 またの名を、丹後王国の女王グラツィア」が制作されました。
物語の主人公はガラシャがモデルとなった「丹後王国の女王グラツィア」で、蒙昧かつ野蛮な夫の非道に耐えながらも信仰を貫き、最後は命を落として夫を改心させたというキリスト教信者に向けた物語になっています。
この戯曲はマリーアントワネットの実家であるウィーン・ハプスブルク家の宮殿内で演じられ、ガラシャと同じような境遇にあった姫達の共感を呼び、賞賛されたといわれています。