浅井長政

1545年~1573年(享年29歳)
浅井 長政(あざい ながまさ)は、北近江の戦国大名です。浅井家3代目当主で、織田信長の妹・お市の方と婚姻して織田家と同盟を組みました。その後信長と決裂して自害したため、長政は浅井家最後の当主となりました。




浅井長政の家紋

長政の家紋は三つ盛亀甲です。長政の祖父・亮政は井桁紋、父・久政の肖像には違い扇紋が描かれているため、三つ盛亀甲は戦国大名として独立した長政一代の家紋であったとも考えられています。

浅井長政の生まれ

長政は天文14年(1545年)、北近江(滋賀)の戦国大名・浅井久政の嫡男として生まれました。

幼名は猿夜叉丸といい、当時の浅井家は近江守護・六角家に臣従していたため、永禄2(1560)年の元服時には六角義賢の一字を与えられ賢政(かたまさ)と名乗りました。また、六角家の家臣・平井定武の娘と婚姻します。

野良田の戦い

永禄2年(1559年)、長政に対する六角家の対応に不満を抱く浅井家臣たちは、久政を強制的に隠居させ、賢政に家督を譲らせました。賢政が六角家と縁を切るため「賢」の字を捨てて「長政」と名乗り、平井夫人を六角家に送り返すと、六角家は激怒して永禄3年(1560年)に近江野良田、肥田に攻め寄せました。

六角家に臣従していた肥田城主・高野備前守が長政の調略で寝返ると、六角軍は肥田城を攻めましたが、長政も援軍として駆けつけます。六角軍2万5,000、浅井軍1万と浅井家の兵力は六角家の半分以下でしたが、六角軍が油断した隙を突いて浅井軍が反撃を仕掛けると総崩れとなり、浅井軍が勝利しました。この合戦に勝利した長政は、北近江の戦国大名としての地位を得ました。

信長との同盟

尾張大名・織田信長は、美濃斎藤家との膠着状態を打破するため、浅井家との同盟を提案します。長政は信長と同盟を結び、信長の妹・お市の方を妻に迎えました。

しかし元亀元年(1570年)、信長が長政と交わした「朝倉不戦の誓い」を破り、徳川家康と共に越前朝倉家の城を攻め始めました。朝倉義景は父・久政の盟友でもあったため、長政は朝倉家との同盟を優先して織田・徳川連合軍を背後から急襲しました。長政の離反で窮地に立たされた信長でしたが、木下秀吉らの働きで近江国から撤退します。

姉川の戦い・小谷城の戦い

その後、長政は朝倉軍と共に、近江国姉川で織田・徳川連合軍と戦いました。この戦いで長政の配下にいた藤堂高虎が武功を上げるなど活躍しましたが、結局この戦いは織田・徳川連合軍が勝利しました。

敗北した長政は信長と対立していた延暦寺や武田信玄と手を組み対抗しましたが、比叡山焼信長の焼き討ちで壊滅、武田軍は信玄の急死で甲斐に撤退するなど、状況は長政の不利が続きました。更に天正元年(1573年)、信長が3万の軍を率いて北近江に攻め寄せると、救援に駆けつけた朝倉軍を越前まで追い込み滅亡させました。

浅井家本拠の小谷城(滋賀県長浜市)を織田軍が包囲すると、信長は長政らに降伏を求めましたが、長政は降伏を断って父と共に自害し、戦国大名としての浅井家は滅亡しました。

子孫

長政には平井夫人との間に万福丸、万寿丸の兄弟、後妻・お市の方との間に茶々、初、江の姉妹がいましたが、嫡男の万福丸は朝倉義景の下で人質として過ごしたといわれています。

浅井家が滅亡すると、10歳の万福丸は信長の命で羽柴秀吉に捕らえられ、串刺しの刑で処刑されました。弟の万寿丸は仏門に入ったといわれ、茶々は秀吉の側室・淀殿として生き、初は京極高次の正室、江は徳川秀忠の継室となりました。また、江と秀忠の娘・和子は後水尾天皇に中宮として迎えられたため、浅井家の血筋は天皇家にも引き継がれていきました。

浅井長政の逸話

長政の身長

戦国時代、男性の平均身長が155~158cm程だったのに対し、長政は身長180㎝を超える大男であったとされ、長政の姉・阿久も身長176cmあったといわれることから、浅井家は大柄の家系であったと思われます。

また、織田家も信長が170㎝、お市の方も身長165㎝の長身で、長女の茶々は身長168㎝、孫に当たる豊臣秀頼も身長196cmと高身長であったという説もあります。

薄濃髑髏(はくだみどくろ)

朝倉義景、浅井久政・長政の死から翌年、信長は織田家正月の宴席に薄濃(はくだみ・漆塗りに金粉を施す)にした義景・久政・長政の頭蓋骨を白木の台に置き、皆で謡い遊んだといいます。

一見すると残忍な話ですが、頭蓋骨を薄濃にするのは死者を弔う意味があったため、薄濃の頭蓋骨を宴席に据えるのは、死者を侮蔑するという意味ではなく、信長なりの供養だったとも考えられます。

また、信長はその頭蓋骨を杯にして酒を飲んだともいわれますが、信長はあまり酒を好まなかったため、頭蓋骨の杯は創作であると考えられています。