1563年~1646年(享年83歳)
細川 忠興(ほそかわ ただおき)は、戦国時代から江戸時代の武将です。

信長、秀吉、家康に仕えて江戸時代は豊前小倉藩の初代藩主となりました。

茶人・細川三斎としても有名で、茶道流派・三斎流の開祖であり、利休七哲の一人に数えられます。

生まれ

永禄6年(1563年)、室町幕府第13代将軍・足利義輝に仕えた細川幽斎の長男として京で生まれました。

永禄の変後、父・幽斎は織田信長を頼って義輝の弟・義昭を第15代将軍に擁立しますが、やがて義昭と信長が対立すると幽斎と忠興は信長に臣従しました。

信長の嫡男・信忠に仕えることになった忠興は15歳で紀州征伐に加わり初陣し、松永久秀が謀反を起こすと、久秀についた大和片岡城を幽斎、明智光秀と共に落とし、信長から直筆の感状を与えられて評価されました。

天正6年(1578年)に元服した忠興は、信長の仲介で光秀の三女・玉子(ガラシャ)と婚姻します。

豊臣・徳川時代

天正10年(1582年)、舅の明智光秀が信長に謀反を起こし、細川父子は光秀から味方になるよう誘われましたが、細川父子はこれを拒否して逆臣の娘となったガラシャを領国・丹波味土野(京丹後市)に幽閉しました。

山崎の戦いで光秀が敗死すると細川父子は豊臣秀吉に仕え、小牧・長久手、小田原征伐、朝鮮出兵に従軍しましたが、関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍に属します。

関ヶ原本戦で、忠興は黒田長政と共に石田三成の本陣に攻め込み、首級136を上げた功績から豊前中津に33万9,000石を与えられ、豊後杵築6万石もそのまま細川領とされ39万9,000石の大名となりました。

忠興は大坂の陣にも徳川方として参戦し、その後三男・忠利に家督を譲って隠居し、正保2年(1645年)に八代城(熊本県八千代市)で亡くなりました。

ガラシャと忠興

忠興のガラシャに対する愛情は深く、本能寺の変でガラシャの父・明智光秀が謀反人となったときも、通常は妻を家に戻すのが普通でしたが、忠興は離縁せずガラシャを幽閉して匿います。

また、美人であったガラシャを他の者に見せないため、忠興はガラシャを家の奥に住まわせ外出を許しませんでしたが、ある時庭師がガラシャの姿を見てしまうと、それを知った忠興は激昂して庭師を手討ちにしました。

その後、忠興が庭師の首をガラシャの前に置いても平然としていたため、忠興が「お前は蛇のような女だ」と言うと、ガラシャも「鬼のような夫には蛇のような女が似合いでしょう」と返したといわれます。

忠興が九州征伐へ行っている間、ガラシャはキリシタンに入信しましたが、禁教令が出ていた当時謀反を疑われる危険があったため忠興は激昂します。

しかし、次第に禁教令が緩くなってからはガラシャのために屋敷内に教会を建てたり、関ヶ原の戦いで西軍の人質になることを拒んだガラシャが屋敷に火を放ち亡くなると、キリスト教式の葬儀を執り行い妻の冥福を祈ったともいわれています。