1504年~1565年(享年62歳)
飯富 虎昌(おぶ とらまさ)は、甲斐武田家に仕えた武将で、武田二十四将の一人です。

武田信虎・信玄2代に仕えた宿老で、戦国最強の騎馬軍団「赤備え」の創始者ともいわれ、その武勇は「甲山の猛虎」と畏れられました。

官位は兵部少輔(ひょうぶしょうゆう)を冠したことから、「飯富兵部」の名でも知られます。

信虎時代

虎昌は永正元年(1504年)、甲斐武田家の家臣・飯富道悦の子として生まれたとされ、山県昌景は弟(または甥)に当たるといわれています。

永正12年(1515年)に武田信虎が西郡の国人である大井信達・信業を攻めて大井家の本拠・富田城を包囲して戦った際に父・道悦は戦死し、虎昌は享禄4年(1531年)、26歳頃に今井信元・栗原兵庫らと信虎に謀反を起こしましたが、敗れた虎昌は降伏しました。

以降、信虎に臣従した虎昌は天文5年(1536年)の北条氏綱による駿河侵攻に援軍として参加し、敵軍を打ち破って勝利に貢献し、天文7年(1538年)の諏訪・村上連合軍との戦いでは寡兵で大群を破り、自らも97の首級を挙げる軍功を挙げたといわれています。

信玄時代

天文10年(1541年)、虎昌は武田家宿老・板垣信方、甘利虎泰らと武田信晴(信玄)を擁立して信虎を駿河に追放し、以後は宿老として信玄に仕えました。

天文17年(1548年)の上田原の戦いで板垣信方と甘利虎泰が亡くなると、虎昌は武田臣下の中核となり、常に最前線で軍事を指揮しました。

天文22年(1553年)、虎昌が守備する内山城(長野県佐久市)が上杉謙信・村上義清の連合軍8000に包囲されたとき、虎昌は僅か800の兵で連合軍を撃退したといわれ、永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦い以後は信玄の嫡男・義信の傅役に任命されるなど、信玄から厚く信頼されていました。

義信事件

義信の後見となった虎昌ですが、やがて対今川家の方針を巡って信玄と義信が対立するようになり、永禄8年(1565年)に虎昌は義信を担いで謀反を企んだとして捕らえられ、その責任を負う形で自害しました。

信玄による義信、虎昌の処断の理由は、親今川派の義信と今川領国への侵攻を望む信玄の意見の対立によるものと考えられていますが、虎昌が自害した理由は義信を庇い首謀者として断罪されたとも、武田家中で大きな勢力を誇っていた虎昌を、事件を契機に信玄が粛清したなど諸説あります。

子孫

虎昌には昌時という子がいましたが、事件後は武田家の縁で公家のを頼って古屋昌時と名乗り、飯富家は断絶しました。

また、虎昌が率いていた家臣団は山県家の名跡を継いでいた弟(または甥)の山県昌景が引き継ぎました。