1536年~1582年(享年47歳)
明智 秀満(あけち ひでみつ)は、明智光秀に仕えた戦国時代の武将です。光秀の重臣として仕えた人物で、三宅弥平次、明智光春、左馬之助など複数の名があります。
明智秀満の生まれ
秀満は天文5年(1536年)、明智光秀の家臣・三宅秀朝の子として生まれました。
当初は三宅弥平次と名乗っていましたが、光秀の娘と婚姻して娘婿になり、明智秀満と名乗りました。
秀満は光秀の重臣として丹波攻略で活躍し、天正9年(1581年)には丹波福知山城主となります。
本能寺の変
天正10年(1582年)、本能寺の変で秀満は明智軍の先鋒となり、京都の本能寺を襲撃しました。
その後は信長の居城・秀満は安土城を見張っていたため、光秀と羽柴秀吉による山崎の戦いには出陣しませんでした。その後、明智軍敗北の報せを受けると、秀満は安土城退去し、坂本城に向かいます。また一説には、秀満軍は安土城を退去する際、城に火を放ったともいわれます。
その後、信長の側近・堀秀政によって坂本城は包囲され、秀満はしばらく籠城戦に及んだものの、勝ち目なしと判断すると先手大将の堀直政に明智家所有の古美術品を贈った後、城に火を放って光秀の妻子と自身の妻を刺し共に自害しました。
明智秀満の逸話
秀満の出自・生存説
秀満の出自には複数の説があり、最初に三宅弥平次と名乗っていたことから、明智家の家臣として仕えた三宅家の一族であるという説と、明智光秀の叔父・明智光安の子であり、明智光秀とは従兄弟に当たるという説もあります。
しかし、光秀の従兄弟に当たるという説は江戸時代に編纂された「明智軍記」に記されたもので、創作であるとも考えられています。
生存説として、徳川家康の側近・南光坊天海は明智光秀とされる説がありますが、秀満という説もあり、もしくは光秀・秀満二代にわたって南光坊天海を名乗ったという説もあります。また幕末の志士、坂本龍馬は秀満の末裔であると称していました。
明智左馬助の湖水渡り
本能寺の変後、光秀の敗死を知った秀満は坂本城へ撤退中、秀吉軍の先鋒隊・堀秀政の兵に遭遇します。その際、窮地に立たされた秀満は琵琶湖を愛馬・大鹿毛(おおかげ)に乗って渡ったといわれる伝説があります。
大津市打出浜、びわ湖岸にある琵琶湖文化館横には、「明智左馬之助湖水渡」と刻まれた石碑が建てられています。
郷吉弘の脇差
本能寺の変後、秀満が坂本城で掘秀政の軍に城を包囲されると、秀満は坂も城に所蔵されていた天下の名宝を渡しましたが、名宝の中に明智家の秘宝「郷吉弘の脇差」がありませんでした。それだけが何故ないのか大将の堀直政が使者を送って問うと、秀満は「この刀だけは光秀愛用のものだったので、自身の手で冥土の光秀に届ける」と答えたといいます。
秀満の兜
秀満は「兎耳頭高兜」という、兎の耳が付いた兜を使用していました。兎は足が速いことから、その俊足にあやかって前立てに使われました。秀満の鎧には当時最先端の南蛮銅が使用されており、兜と共に東京国立博物館に所蔵されています。