1534年~1610年(享年77歳)
細川 幽斎(ほそかわ ゆうさい)は、室町幕府13代将軍・足利義輝に仕えた人物です。
信長、秀吉、家康に仕えて重用されましたが、剣術、弓、和歌など文武両道に優れた教養人でもありました。
生まれ
幽斎は天文3年(1534年)、和泉上守護・細川元有の子で、三淵家の養子となっていた三淵晴員の次男として生まれました。
三淵家は兄の藤英が継いだため、幽斎は天文9年(1540年)、7歳で伯父の和泉半国守護・細川元常(三淵晴員の兄)の養子になったとされています。
天文15年(1546年)、将軍・足利義輝に幕臣として仕えましたが、永禄8年(1565年)の永禄の変で義輝が三好三人衆に討たれると、兄の藤英と共に義輝の弟・足利義昭を救出して近江国の六角義賢、若狭国の武田義統、越前国の朝倉義景らを頼り義昭の将軍任官に奔走しました。
その後、明智光秀を通じて尾張国の織田信長に助力を求めると、永禄11年(1568年)に信長が義昭を奉じて上洛し、義昭は第15代将軍となりました。
本能寺の変
やがて信長と義昭の関係が決裂すると、幽斎は家名を存続させるため信長に恭順し、以降は畿内各地を転戦して軍功を挙げました。
天正6年(1578年)には信長の仲介で嫡男・忠興と明智光秀の娘・たま(ガラシャ)が婚姻しましたが、天正10年(1582年)に本能寺の変が起こると光秀から助力を要請されます。
幽斎は子の忠興と共にその要請を断り、幽斎は忠興に家督を譲って出家しました。光秀が山崎の戦いで没すると幽斎は豊臣秀吉に仕え、天正13年(1585年)の紀州征伐、天正15年(1587年)の九州平定などに参戦し、文禄4年(1595年)には大隅国に3,000石加増されました。
関ヶ原の戦い
秀吉没後は親交のあった徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、忠興が家康の会津征伐に従軍する間、幽斎は居城・丹後田辺城を守っていました。
やがて石田三成らが家康討伐のため挙兵すると田辺城は小野木重勝・前田茂勝らが率いる1万5,000の兵に包囲されましたが、幽斎は約2か月籠城します。
また、攻囲軍の中には幽斎の弟子が多くいたため攻撃に消極的であり、弟子の一人・八条宮智仁親王が講和を働きかけましたが、幽斎はこれを謝絶して籠城を続けました。
このままでは幽斎との戦いを避けられないと思った八条宮は、兄・後陽成天皇に奏請し、正式に停戦の勅使が下されると、田辺城は無血開城されました。
その後、幽斎は敵将・前田茂勝の丹波亀山城に入りましたが、田辺城で足止めされた西軍は関ヶ原本戦に参加できなかったため、東軍勝利の一因ともなります。
子の忠興は関ヶ原本線で前線に立ち、で石田三成の軍と戦った軍功から戦後豊前小倉藩39万9,000石を与えられ、幽斎は京都吉田で晩年を過ごし、慶長15年(1610年)京都三条車屋町の自邸で亡くなりました。