武田菱

武田菱
1552年?~1562年
武田 元明(たけだ もとあき)は、若狭国の戦国大名で、若狭武田家9代(最後)の当主です。信長に冷遇されて本能寺の変で明智光秀に付きましたが、後に信長の重臣・丹羽長秀によって殺害、または自害しました。

武田元明の生まれ

武田元明は天文21年(1552年)、または永禄5年(1562年)に若狭国(福井)の武田家当主・武田義統(義元)の子として生まれ、父より一字を受けて「元明」と名乗りました。

若狭武田家は源氏の血統を伝える名門で、歴代当主は室町幕府の要職を務めた家系でした。元明の生まれた頃は武田家も衰退し、若狭では住民の権益を守る国人衆が争って不安定な状態が続いていましが、若狭の人々は武田家を敬慕していたため、武田家への下剋上はありませんでした。

永禄10年(1567年)に父・義統が死去すると元明が家督を継いで当主となり、妻に京極竜子を迎えます。

織田家の若狭支配

永禄11年(1568年)、朝倉義景が若狭に侵攻して反朝倉の国人衆を攻撃し、元明の居城・後瀬山城を包囲しました。元明は自害を覚悟しましたが、朝倉方の説得を受けて強制的に一乗谷朝倉館に移住させられました。

若狭武田家は朝倉家に従属する形になりましたが、元亀元年(1570年)、織田信長が足利義昭上洛作戦に参加しなかった朝倉家を攻めて越前に侵攻します。しかし、この時は信長と同盟を組んでいた浅井長政が離反したため織田軍は撤退しました。

その後、信長は若狭に丹羽長秀明智光秀を派遣して若狭から朝倉家の勢力を排除し、長秀に若狭の統治を行わせます。

天正元年(1573年)に信長は朝倉家を滅ぼし、若狭衆(逸見昌経、内藤越前守、香川右衛門大夫、熊谷直澄、山県下野守、白井光胤、粟屋勝久、松宮玄蕃、寺井源左衛門、武藤景久)は織田軍に参加して元明を救出しました。

しかし、若狭一国は長秀に任せられ、若狭衆はその与力とされました。元明や若狭衆は武田家の復権を信長に求めましたが、それは許可されませんでした。朝倉家から解放された元明は、信長の命令で若狭神宮寺に移り住みます。

天正9年(1581年)、大飯郡高浜城8,000石の領主・逸見昌経が死去すると後嗣がなかったため、信長は大飯郡佐分利の石山城3,000石を元明に与えて若狭衆に加えました。

本能寺の変

天正10年(1582年)の本能寺の変で、復権を望んだ元明は義兄・京極高次と共に明智光秀に付き、丹羽長秀の居城・佐和山城を攻め落としました。

しかし山崎の戦いで光秀が敗死すると、恭順の意を示そうとした元明は長秀のいる近江海津に招かれて法雲寺で殺害、または自害しました。享年21または31歳、元明の墓所は宝幢院(滋賀県高島市)にあります。

元明の死後、妻の京極竜子は豊臣秀吉の妻・寧々の力添えで秀吉の側室となりました。京極高次は関ヶ原の戦い後に若狭の大名となり、武田元明の遺児・義勝を家臣に迎え入れました。