1521年~1555年(享年35歳)
陶 晴賢(すえ はるかた)は周防国の戦国大名・大内家に仕えた武将です。

眉目秀麗で少年の頃は主君・大内義隆の寵愛を受けていましたが、後に謀反を起こして大内家の実権を握りました。




陶晴賢の生まれ

晴賢は大永元年(1521年)、周防国(山口)の戦国大名・大内家の重臣、陶興房(おきふさ)の次男として生まれました。

元服時に当主・大内義隆から一字を賜り隆房(たかふさ)と名乗ります。

天文8年(1539年)に父・興房が病死すると、兄は既に戦死していたため、隆房が陶家の家督を相続しました。

月山富田城の戦い

天文11年(1542年)、隆房は義隆の命令で出雲の大名・尼子晴久の領土へ侵攻しましたが、城攻めが難航してくると大内方に付いていた国人衆が寝返ったため、大内軍は劣勢となり撤退しました。

更に、撤退途中に尼子軍の追撃を受けて義隆の養嗣子であった大内晴持など多数の死者を出して大敗してしまいます。

寵愛していた晴持が亡くなると、義隆は戦意喪失し、以後は武断派の隆房を遠ざけて文治派の家臣・相良武任を重用するようになっていきました。

その後隆房と武任は対立するようになり、次第に隆房は義隆とも不仲となりました。

大寧寺の変

天文20年(1551年)、相良武任が義隆に「陶隆房が謀反を企てている」と讒言すると、文治・武断派の対立が決定的になり、隆房ら武断派は挙兵して5,000〜10,000の兵力で、文治派に傾倒している義隆に謀反を起こしました。

隆房の武力を恐れて筑前に出奔していた武任は、陶軍の野上房忠によって殺害されます。

隆房は大内氏館(山口県山口市)へ攻め込み、義隆は逃亡して大寧寺へ籠もったものの、陶軍の追手からは逃れられず自害に追い込まれました。

戦後、隆房は義隆の養子・大内義長を大内家新当主として擁立し、名を隆房から晴賢と改めます。

厳島の戦い

大内家は義長が当主となったものの、実権は晴賢が握っていたため、大内家の傘下にある領主らが次第に反発を始めます。

石見の国人・吉見正頼が反攻すると、晴賢は主力軍を率いて石見へ向かいましたが、その隙に大内家の領土であった安芸を毛利元就によって攻められ、安芸は毛利家の支配下となりました。

安芸を取り戻すため、弘治元年(1555年)に晴賢は2万~3万の兵を率いて厳島へ侵攻しましたが、宮尾城(広島県廿日市)を攻略中に毛利軍が大内軍の本陣を奇襲して敗北しました。

更に毛利軍に味方していた海賊衆・村上水軍によって大内水軍の退路も断たれてしまい、逃げ場を失った晴賢は自害に追い込まれました。

晴賢の墓所は、首実検が行われたと伝わる洞雲寺(広島県廿日市)にあります。