竹輪に飛び雀

上杉謙信
1530年~1578年(享年48歳)
上杉謙信は越後国(新潟県)を治めた戦国時代の大名です。関東管領であった謙信は、越後の内乱を治め、国の回復に努めます。

また、他国からの援軍要請を受けて幾度も出兵を重ね、川中島の戦いでは武田信玄と5回に渡る戦いを繰り広げました。




上杉謙信の家紋

竹輪に飛び雀
上杉家の家紋は、竹輪に飛び雀です。上杉家は藤原北家勧修寺流の一門で、勧修寺流の一門は「竹に雀」が描かれたものを家紋として使っています。

伊達政宗も「竹に雀」の家紋を使っていますが、これは政宗の大叔父に当たる伊達実元が、越後守護大名・上杉定実の婿として養子に入るときに与えられたものです。後に伊達氏の定紋に変わり、「仙台笹紋」が伊達氏の家紋として使われるようになります。

上杉謙信の生まれ

謙信は享禄3年(1530年)、越後国(新潟)守護代・長尾為景の四男(次男、三男説もあり)として生まれ、幼名は虎千代と名づけられました。

天文5年(1536年)に為景が隠居すると、家督は虎千代の兄・晴景が継承します。このとき虎千代は城下の上杉家の菩提寺・林泉寺に入門し、仏教の教えを受けました。

天文12年(1543年)に15歳の虎千代は元服し、翌年には晴景と越後の豪族との戦いが起こり、謙信の居城・栃尾城にも敵が攻め寄せてきました。

謙信はこの戦いで初陣し、城兵を二手に分けて敵本陣の背後を突き、更に城内から本隊を突撃させて敵陣を壊滅させ、謀反を鎮圧させました。

家督継承・越後統一

天文17年(1548年)、かねてより晴景に不満を持っていた越後の豪族たちは、謙信を擁立して家督を譲るよう迫ります。晴景が病弱であったこと、越後の内乱を治める才覚がなかったことなどが不満が高まった要因といわれています。

天文17年(1548年)、晴景は謙信を養子として家督を譲り、謙信は19歳で家督を継承して春日山城に入りました。しかし、謙信の家督継承に不満を持っていた一族の坂戸城主・長尾政景が天文19年(1550年)坂戸城に籠もり、反乱を起こします。

天文20年(1551年)に謙信は坂戸城を包囲し、政景は降伏を余儀なくされます。謙信は政景を許さず処刑するつもりでしたが、政景が謙信の姉・仙桃院の夫であったことや家臣達の嘆願により助命されました。

謙信が政景の謀反を鎮圧したことで越後の内乱は治まり、22歳で越後を統一します。

春日山城

春日山城跡
春日山城跡(新潟県上越市)

上越市中部・蜂ヶ峰山頂に築かれていた城で、蜂ヶ峰城とも呼ばれています。標高182mある山そのものが天然の要害となっており、日本五大山城にも数えられている城です。長尾為景、長尾晴景、上杉謙信、上杉景勝の四代が居城としていました。

謙信が生まれた城であり、19歳のときに兄・長尾晴景から家督を相続して城主となります。春日山城は現存していませんが、城跡には春日山神社があり、山形県の上杉神社から分霊した謙信が祀られています。

川中島の戦い

八幡原史跡公園
八幡原史跡公園・一騎打ち像(長野県長野市)

天文22年(1553年)から北信濃の支配権を巡り、謙信と武田信玄の間で川中島の戦いが起こりました。

北信濃の畔には長野盆地があり、盆地の南に位置する犀川と千曲川の合流地点周辺を川中島と呼んでいました。謙信と晴信の争いは、12年間で5回起こっています。

5度にわたる戦いは両軍の引き分け、もしくは和睦で終わりましたが、謙信、信玄没後、天正6年(1578年)に上杉家の家督争いが起こると、上杉景勝武田勝頼の異母妹と婚姻して甲越同盟を結びます。

上杉謙信の最期・死因

天正5年(1577年)、謙信は春日山城内の厠で倒れ、48歳で急死しました。謙信の死因は明確に分かっていませんが、生活習慣病が死因と考えられています。

謙信は大の酒好きだったため、過度の飲酒や塩分の摂り過ぎなどで高血圧、糖尿病にかかっていたといわれています。

また、食生活が原因で胃がんや食道がんを併発していたのではという説もあり、病死説が定説となっています。




上杉謙信の逸話

上杉謙信の性格

上杉謙信像
春日山城跡・上杉謙信像

謙信は武神・毘沙門天を厚く信仰し、旗印にも「毘」の文字を使用していました。日頃は質素倹約に努めていましたが、戦の前になると多くの米を炊かせ、山海の珍味を豊富に並べて部下たちに振舞ったといいます。

謙信の倹約ぶりを知っている部下たちは豪勢な食事に感謝し、より結束を固めていきました。謙信の行いは、新潟や山形の一部で「お立ち飯」という風習で残っています。

「越後の龍」、「軍神」といわれる謙信は、戦上手なだけでなく達筆で和歌にも通じ、琴を奏でる趣味もありました。

また、物語は「源氏物語」など恋愛系の書物を好んでよく読んでおり、上洛時に開かれた歌会でも見事な雅歌(恋歌)を詠み、参加者を感嘆させたといわれます。

敵に塩を送る

塩
永禄10年(1567年)、謙信のライバルといわれる武田信玄が、同盟国の駿河・今川氏真との関係が悪化したため塩止めを受けます。信玄の治めていた甲斐、信濃は内陸のため、塩を自国で採取することはできませんでした。

謙信がこれを知ると氏真の行いを卑怯と批判し、「私は戦場でそなたと決着をつけようと思っている。今は越後の塩を送ろう」と信玄に塩を送ったといわれます。

この逸話が実際にあったという史書の裏付けはありませんが、信玄は謙信に感謝して「塩留めの太刀」と呼ばれる刀を送ったとされ、その太刀は東京国立博物館に所蔵されています。

女性説

謙信は生涯妻を迎えなかったことや、毎月同じ日に腹痛を起こしていたといわれ、腹痛の原因は月経や婦人病だったのではないかといわれています。

ただし、女性であったと証拠付ける明確な史料は残されていないので、あくまで俗説と捉えられています。

謙信は毘沙門天を信仰していたため、妻を迎えなかったのは仏教の五戒の一つである「邪淫戒」を守ったためとされています。また、謙信が度々腹痛を起こしていたのは、大量の飲酒や塩分の摂り過ぎで消化器系のがんを発症していた可能性もあります。

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