亀甲に花菱

直江兼続
1560年~1620年(享年60歳)
直江 兼続(なおえ かねつぐ)は、戦国時代の大名・上杉家に仕えた武将です。上杉家の執政として内政・外交面で活躍しました。

上杉景勝に仕える時代は、上杉家のナンバー2として景勝を支え、豊臣秀吉からは「天下執柄(しっぺい)の器量人なり」(兼続であれば天下の政治を任せられる)と称えられています。




直江兼続の家紋

亀甲に花菱
直江家の家紋は亀甲に花菱です。亀甲紋は、北方を守護する玄武(亀)を象ったものです。

兼続の墓には「亀甲に花菱」の家紋を三つ合わせた「三盛亀甲紋」が彫られており、兼続が実際に使っていたのか、後に彫られたものかは不明ですが、他にも複数の家紋を使用していたようです。

直江兼続の出身

春日山城
春日山(新潟県上越市)

兼続は永禄3年(1560年)、越後国(新潟)上田庄で生まれました。父は上杉家の家臣・樋口兼豊で、永禄7年(1564年)に上田長尾家当主・政景が亡くなると上杉景勝に従って春日山城に入ります。

天正9年(1581年)、上杉家の家臣・直江信綱が死去すると、兼続は景勝の命により、信綱の妻であったお船(おせん)の婿として婚姻し、直江家を継いで越後与板城主となりました。以後、兼続は上杉家の執政として検地惣奉行(田畑の面積、収量の調査)・蔵入地奉行(年貢の徴収)など重要な職務に当たります。

天正12年(1584年)、兼続と執政を行ってきた狩野秀治が病に倒れると、兼続は内政・外交の職務を単独で行いました。兼続は家臣たちに「旦那」と敬称されており、景勝や他の家臣達からも厚く信頼されていたことが窺えます。

与板城(よいたじょう)

新潟県長岡市与板にあった山城。長尾家家臣・直江家の居城で、兼続が直江家に婿入りしたときに城主となりました。慶長3年(1598年)に上杉家が会津に移封すると、廃城となります。城は現存していませんが、曲輪跡、堀切・土塁などの遺構が残っています。

内政

天正16年(1588年)、兼続は景勝に従って上京し、に豊臣秀吉から豊臣姓を授けられ、秀吉に臣従しました。

豊臣政権下の時代、兼続は農民に新しい田畑の開墾を奨励します。新田開発の中で、兼続は魚沼郡に自生していたカラムシという植物の栽培を行わせます。カラムシは本座という衣料用の繊維の原材料で、木綿が普及していなかった当時は貴重なものでした。

兼続はカラムシを増産して京都で売ることにより、越後で莫大な利益を上げました。兼続の新田開発により越後は繁栄し、現在でも新潟の米作りの基礎となっています。

米沢藩移封

慶長3年(1598年)、秀吉の命令で景勝が越後から会津120万石に加増移封されると、兼続も出羽米沢に6万石の所領が与えられます。

慶長6年(1601年)に関ヶ原の戦いで上杉家は徳川家康と対立したため、敗戦後景勝は米沢30万石に減俸されたものの、上杉氏の存続は許されました。

米沢へ移封後、兼続は景勝と共に米沢城下の藩政を行い、町の整備、殖産興業、鉱山の開発などを行い、後の米沢藩の基礎を作り上げました。元和5年(1619年)、兼続は60歳で病没します。

兼続亡き後、妻のお船は剃髪して貞心尼となり、兼続が生前に出版した「直江版」(古代中国の詩文選集)の再版を行います。「米沢雑事記」には「山城守(兼続)は亡くなったが、相談事があれば後室(お船)へ話すとよし」と記されており、兼続亡き後も、藩内でのお船の影響力は大きかったようです。




直江兼続の兜・愛の意味

直江兼続の兜
兼続は「愛」の文字を兜の前立てに使っていました。兼続の仕える上杉家の当主は、代々神仏の肖像や文字を入れた前立てを使っていたため、兼続の兜は謙信、もしくは景勝より下賜されたものと考えられます。

謙信が武田信玄、北条氏康の打倒を祈願するため愛宕神社で戦勝祈願したといわれ、愛の字は、愛宕神社の愛の字を由来とする説が有力とされています。

また、他説には愛宕権現(あたごごんげん)、もしくは愛染明王(あいぜんみょうおう)を由来とする説もあります。どちらも武芸の神様であることから、こちらも上杉家当主が神仏の前立てを使っていたという説とつながっています。

直江兼続の城

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