二つ雁金

柴田勝家
1522?年~1583年(享年62歳)
柴田勝家(しばた かついえ)は、尾張の大名・織田家に仕えた武将です。信長の父・信秀が当主の頃から織田家に仕え、信長が家督を継承するときには、既に織田家の重臣であったといわれています。

信秀の死後、勝家は信勝(信長の弟)の家老として仕えていましたが、信勝亡き後は信長に仕えました。




柴田勝家の家紋

二つ雁金
柴田家の家紋は二つ雁金です。

渡り鳥である雁(がん)を家紋としたもので、雁の鳴き声は良い知らせを伝えるといわれ、縁起の良い動物とされていました。

また雁は群れで行動することから、結束や絆を表す家紋でもあります。

柴田勝家の生まれ

勝家の生年は1522年~1527年頃といわれており、正確な生まれ年は分かっていません。

出自は武将・土佐守であった柴田勝義の子といわれていますが、明確な資料はなく、土豪階層の出身であると考えられています。

若い頃から織田信秀に仕えて重用され、信秀亡き後は子の織田信勝(信行)に家老として仕えました。

稲生の戦い

信勝の配下であった勝家は、信勝を信秀の後継者にしようと信長と対立しました。

しかし、後継者争いに信勝が敗北して降伏すると、以後は当主の信長に従います。その後、再び信勝が信長に謀反を企ててると、勝家は事前に信長へ密告し、信勝は処刑されました。

以後、信勝の遺児・津田信澄は勝家の元で養育されました。

北ノ庄城主

その後、勝家は桶狭間の戦いや美濃斎藤家との戦いには参陣しませんでしたが、永禄11年(1568年)、信長が足利義昭を奉じた上洛作戦から再度重用され、先鋒部隊として勝竜寺城の戦いなどで活躍しました。

元亀元年(1570年)、織田家と同盟関係にあった浅井長政が離反すると、これに呼応して近江守護・六角義賢も信長を攻めましたが、勝家は森可成、佐久間信盛、中川重政と共に戦って六角軍を撃退しました。

その後も長島一向一揆や比叡山焼き討ちなどの戦に参戦して武功を挙げ、天正3年(1575年)には越前国八郡49万石、北ノ庄城を与えられました。

★北ノ庄城

北ノ庄城跡
北ノ庄城跡(福井県福井市)

天正3年(1575年)に築城が開始された大規模な城郭で、安土城に匹敵する大きさであったといわれています。越前の戦国大名・朝倉氏の滅亡後、一向一揆を平定した勝家は、信長から越前48万石を与えられ、この地に城を建築しました。

宣教師ルイス・フロイスの記録によると、「城、屋敷の屋根は全て立派な石で葺かれており、その石の色がより一層城の美しさを引き立たせている」と記されています。屋根に使われていた石は福井名産の笏谷石(しゃくだにいし)で、青緑色をしているのが特徴です。笏谷石は城の近くにある足羽山でも産出されていました。

天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れ、城にも火が放たれたため焼失しましたが、後に城の跡地に入った結城秀康により新たに城が建築されたことから、柴田氏北ノ庄城と結城氏北ノ庄城(福井城)と呼び分けられます。

加賀平定

七尾城頂上
七尾城頂上(石川県七尾市)

天正4年(1576年)から、勝家は与力の前田利家や佐々成政らと加賀国の平定を任されます。しかし、越後の上杉謙信が加賀まで進出してきたため、勝家は七尾城を巡って上杉軍と争いました。

この時、勝家の救援として羽柴秀吉が参陣していましたが、作戦に関して仲違いし、秀吉は無断で戦線を離脱してしまいます。そのため、七尾城も陥落して勝家は敗北します。

しかし、翌年に謙信が亡くなると上杉家の後継者争いで内乱が起こり、上杉家も加賀まで積極的に攻めてくることはありませんでした。

天正8年(1580年)には信長と敵対していた本願寺が和議を結んだことで、勝家も一向一揆の制圧に集中することができ、同年中に加賀を平定させました。また、この頃に重臣の佐久間信盛が失脚したことで、勝家が織田家の筆頭家老としての地位を得ました。

本能寺の変

本能寺
本能寺(京都市中京区)

天正10年(1582年)、勝家は上杉家の城である越中国の魚津城・松倉城(富山県魚津市)を攻めていましたが、その最中に本能寺の変が起こり、信長が亡くなりました。

魚津城を陥落させた後に変を知った勝家は、すぐに北ノ庄城へ戻り、大坂で四国攻めに備えていた丹羽長秀らと共に明智光秀を討つ計画を立てます。

しかし、信長の横死を知った上杉軍の妨害に遭ったことで、中国大返しで引き返してきた秀吉が先に光秀を討ちました。

清洲会議

信長の遺領地の配分や後継者を決める清須会議で、秀吉は三法師を後継者に推しましたが、勝家は信長の三男で関係の深かった信孝を後継者として推薦しました。

しかし、同席していた丹羽長秀や池田恒興が秀吉と同意見だったため、織田家の家督は三法師が継ぐこととなりました。ただ、一説には信長の後継者は既に三法師と決定しており、清須会議では今後三法師をどう支えていくかについて会議が行われたという説もあります。

遺領配分については、勝家は北近江3郡と長浜城を新たに得ましたが、秀吉は河内や丹波・山城を加増されたため、勝家と秀吉の立場は逆転しました。

勝家はこの会議で諸将の承諾を得て、信長の妹であるお市の方を妻に迎えます。

お市の方

柴田神社・お市の方像
柴田神社・お市の方像(北ノ庄城跡)

お市の方は織田信長の妹で、絶世の美女といわれた人物です。初めは浅井長政の継室でしたが、長政が姉川の戦いで信長に討たれた後、寡婦となります。

天正10年(1582年)に勝家はお市と婚姻し、勝家が60歳、お市が36歳と親子ほど歳が離れていましたが、勝家は初婚だったようです。

何故お市の方が勝家と再婚することになったのか、その詳細は分かっていませんが、お市が信長を失って庇護を受けられなくなったこと、秀吉が清須会議で対立した勝家を抑えるため、お市との婚姻を提案したなどの説があります。

賤ヶ岳の戦い

清州会議後、織田家で台頭した秀吉は次第に権力を専横し、これに反発した織田信孝滝川一益らは勝家を頼ったため、織田家中では重臣達の権力争いが始まりました。

天正11年(1583年)、勝家は秀吉と北近江で対峙しましたが、途中勝家側についていた前田利家や金森長近らの軍勢が離脱して秀吉側に付いたため、戦線を支えきれなくなった柴田軍は北ノ庄城へ退却します。

織田信孝と滝川一益も秀吉に挙兵したものの、既に北ノ庄城で包囲されていた勝家は、お市の連れ子である浅井三姉妹を秀吉の元へ届けた後、お市と共に自決しました。




柴田勝家の家臣

柴田勝豊(しばた かつとよ)

柴田勝家の家臣・吉田次兵衛の子。生母は柴田勝家の姉であることから、勝家の甥に当たる人物です。勝家が信長の筆頭家老になったとき、勝家の養子になりました。

天正3年(1575年)に勝家が北ノ庄城主となった翌年、勝豊は勝家から4万5000石を譲り受け、北ノ庄城の支城・丸岡城を築城し、城主となります。その後、清須会議で勝家の所領になった近江へ移ると長浜城の城主になり、丸岡城には佐久間盛政の家老・安井家清が入城しました。

賤ヶ岳の戦いでは、長浜城を羽柴軍に渡して寝返りました。勝豊の寝返りは、勝家が同じ養子である柴田勝政を、勝豊より優遇していたこと、勝豊が従兄の佐久間盛政と仲が悪かったなど、一族同士の不和が原因であると考えられています。

戦いの当初、勝豊は病に臥せっており、家臣を代理として参戦させていました。その後、京都で病気の治療を受けていましたが、東福寺で28歳の若さで亡くなります。勝豊が亡くなっておよそ1週間の後、勝家も北ノ庄城で亡くなりました。

佐久間盛政(さくま もりまさ)

勇猛な武将で、身長六尺(約182センチメートル)あったと「佐久間軍記」に記録されています。玄蕃寮(げんばりょう)という治部省に所属していたため、「鬼玄蕃」の名で知られていました。

織田家臣として数々の戦に参戦し、勝家が越前一国を与えられた際に勝家の与力に配属されます。

賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れた後、勇将と名高い盛政を秀吉は家臣に迎えようとしますが、盛政は敗軍の将として処刑を望みました。

秀吉は盛政の武辺を惜しんで切腹させようとしましたが、盛政が処刑を望んだため、宇治・槙島で斬首されました。享年は30歳ほどの年齢であったといわれています。

佐久間安政(さくま やすまさ)

盛政の弟。兄や弟と共に織田家に仕え、後に柴田軍に配属されます。賤ヶ岳の戦いでは佐久間盛政隊に加わり先鋒を務めていましたが、敗北後、兄の盛政は捕らえられ刑死、養父の保田知宗も討ち死にします。勝家の自決後、安政は弟の勝之を連れて、紀州の保田氏の領地まで落ち延びました。

その後、小牧・長久手の戦いで徳川家康織田信雄の軍に参列していましたが、家康・信雄の軍と秀吉が和睦したため、家康の口利きにより関東の小田原北条氏に身を寄せます。

しかし小田原征伐で北条氏も滅んだため、安政と勝之は浪人となりました。その後、叔父である秀吉直臣の奥山盛昭の口利きにより秀吉に赦され、安政は蒲生氏郷に仕えます。

関ヶ原の戦いでは東軍に属し、その戦功により1万5,000石を与えられ、大坂の陣の戦功で更に1万石を与えられており、佐久間氏飯山藩の藩祖となります。
また、徳川秀忠の御伽衆(おとぎしゅう・将軍へ自己の経験談を話したり、書物の講釈をする)役目も務めました。江戸にて死去、享年72歳。

柴田勝政(しばた かつまさ)

兄に佐久間盛政、佐久間安政、弟に佐久間勝之がおり、佐久間勝政とも呼ばれます。兄と共に信長に仕え、柴田軍に属していました。

武勇に優れ、加賀の一向一揆平定で戦功を挙げたことから勝家に気に入られ、養子となります。同じく勝家の養子であった柴田勝豊とは、日頃から仲が悪かったようです。

賤ヶ岳の戦いでは撤退中に羽柴秀吉の小姓・脇坂安治に討たれたと「寛政重修諸家譜」などに記録されていますが、遺体が収容された記録がないことから、秀吉から罪を許されて金森長近の家臣となったという説や、四国に落ち延びたなどの生存説もあります。

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