武田菱

武田菱
1528年~1582年(享年51歳)
武田 信廉(たけだ のぶかど)は、甲斐の戦国大名・武田信虎の子です。兄の信玄とその子である勝頼に仕えました。

信玄に似た容姿であったことから、信玄の影武者を務めたといわれています。

武田信廉の生まれ

高遠城城址公園
高遠城址公園(長野県伊那市)

信廉は、享禄元年(1528年)~天文元年(1532年)の間に生まれたとされ、天文10年(1541年)に兄の武田信玄が父・信虎を追放して当主となると、信廉は信玄に仕えました。

永禄4年(1561年)に起こった第4次川中島の戦いで兄の信繁が戦死すると、信廉は親族衆筆頭となり本陣守護などを務め、元亀元年(1570年)には信濃・高遠城主に任じられました。

元亀4年(1573年)に信玄が死去すると家督は信玄の子・勝頼が継ぎましたが、父の信虎が帰国を望んだため信廉の居城・高遠城に引き取られます。

長篠の戦い

火縄銃
天正3年(1575年)の長篠設楽原決戦で、信廉は小幡信貞・武田信豊と中央隊として出陣しましたが、織田軍の銃撃を受けて潰走し、多くの将兵が戦死しました。

天正10年(1582年)からは織田・徳川連合軍による甲州征伐が始まりましたが、元々信廉と勝頼は反りが合わなかったようで、織田信忠を先鋒とする織田勢が信濃へ侵攻してくると、信廉は居城の大島城を放棄して甲斐に引き上げました。

戦後、織田軍による残党狩りで信廉は捕らえられ、勝頼自刃からおよそ2週間後に森長可の配下に殺害されました。

信廉の墓所は逍遥院(甲府市桜井町)に建てられています。

武田信廉の逸話

武田信玄
信廉は画家としても有名で、武田信虎像、武田信虎夫人像などの肖像画などが甲府の大泉寺、長禅寺に現存しています。

また、信廉の骨相は側近でも見分けがつかないほど信玄に似ていたため、信玄の影武者を務めたといわれています。

元亀4年(1573年)の西上作戦中に信玄が病没すると、その死を内外に隠すため信玄になりすまして甲府まで撤退し、北条氏政が信玄の生死を確かめるため甲斐に使者を派遣したときには、信廉が影武者として欺いたともいわれています。