平四つ目結

平四つ目結
1570年~1633年(享年64歳)
浅井 初(あざい はつ)は、若狭小浜藩主・京極高次の正室です。姉の茶々(淀殿)、妹のお江(崇源院)と共に「浅井三姉妹」として知られます。

お初の生まれ

お初は永禄13年(1570年)、近江国小谷城主・浅井長政と織田信長の妹・お市の方との間に生まれました。姉の茶々は豊臣秀吉の側室・淀殿となり、妹のお江は2代将軍・徳川秀忠の正室です。

天正15年(1587年)、お初は秀吉の計らいにより、浅井家の主筋に当たる京極家当主・京極高次と結婚しました。高次との間に子はなかったため、徳川秀忠とお江の四女・初姫(興安院)や氏家行広と高次の妹の娘・古奈らを養女とします。

文禄2年(1593年)、高次の侍女・於崎が忠高を懐妊すると、お初は嫉妬から殺害を企てましたが、高次の家臣・磯野信高が忠高を預かって浪人となり、お初の機嫌が和らぐ文禄4年(1595年)頃まで忠高を匿い養育しました。後にお初は忠高の養育にも当たり、養女の初姫と忠高を娶わせました。

豊臣・徳川の仲介人

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、高次は西軍から東軍に寝返り、西軍を大津城で足止めした功績で若狭小浜8万5000石を与えられます。

慶長14年(1609年)に高次が死去するとお初は出家して常高院と号しました。この頃から豊臣秀頼の母で姉の淀殿と徳川家康の対立が露呈するようになり、常高院は豊臣方の使者として仲介に奔走しました。

慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では家康の側室・阿茶局と共に和議を取りまとめて尽力しましたが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると、秀頼の娘・天秀尼の助命を家康に嘆願したともいわれます。

その後は妹・お江と面会するなど余生を過ごし、寛永10年(1633年)、京極忠高の江戸屋敷(東京都港区虎ノ門)で死去しました。墓所は若狭(福井県小浜市)の常高寺にあります。