1446年~1495年(享年50歳)
大内 政弘(おおうち まさひろ)は、周防・長門・豊前・筑前の守護大名です。
応仁の乱で西軍・山名宗全に加勢し、主力として参戦しました。
大内政弘の生まれ
政弘は文安3年(1446年)、大内家13代当主・大内教弘の子として生まれました。母は山名宗全の養女で、石見の守護大名・山名熙貴の娘です。
幼名は亀童丸といい、元服時に将軍・足利義政と父・教弘から一字を賜り、政弘と名乗ります。
寛正6年(1465年)に教弘が死去すると、政弘は19歳で家督を相続して大内家14代当主となり、周防、長門(山口)・豊前(大分)・筑前(福岡)の守護職を引き継ぎました。
応仁の乱
応仁元年(1467年)、細川勝元と山名宗全の勢力争いで政弘は西軍の宗全に付き、京都の東寺に陣を構えて畿内各地を転戦しました。
文明5年(1473年)、山名宗全・細川勝元が相次いで病死すると、政弘は西軍に将軍として擁立されていた足利義視を京都の自邸に迎えて戦いを続けます。
しかし、文明8年(1476年)に東軍側にいた将軍・足利義政が東西和睦を要請したため、政弘も和睦を受け入れて戦いは終わりました。
戦後、教弘は新将軍・足利義尚の下で周防・長門・豊前・筑前の4か国の守護職を安堵されました。
長享・延徳の乱
応仁の乱後、日本各地では守護職、国人、寺社勢力などが公家の荘園などを押領し、勢力を拡大させていきました。幕府は威信回復を目的として、押領を行っていた近江守護・六角行高の討伐命令を下します。
長享元年(1487年)の第一次討伐線で政弘は家臣・問田弘胤を代理として参陣させ、この戦いは足利義尚の病死によって一時中断されます。
延徳3年(1491年)、将軍・足利義稙により再び六角家討伐の命令が下ると、政弘は息子の大内義興と参陣しましたが、明応3年(1494年)に政弘は中風で体調を崩し、義興に家督を譲ると翌年に亡くなりました。
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