弦巻

加藤清正
1562年~1611年(享年50歳)
加藤 清正(かとう きよまさ)は、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた武将です。

秀吉の子飼いとして数々の戦に参戦し、賤ヶ岳の戦いでは七本槍の一人に数えられた名将です。




加藤清正の家紋


加藤家の家紋は弦巻紋(つるまきもん)です。弦巻とは弓の弦を巻き付けて収納しておく輪のことで、弦巻紋には複数の種類があります。

加藤清正が使用していた家紋は円の幅が太いもので、弦巻紋の一種、「蛇の目紋」とも呼ばれます。

加藤清正の生まれ

加藤清正像
清松の生家・妙行寺の加藤清正像(愛知県名古屋市)

清正は永禄5年(1562年)、尾張国愛知郡で生まれました。父は刀鍛冶・加藤清忠で、母・伊都が羽柴秀吉の従姉妹であったことから、天正元年(1573年)より秀吉の小姓として仕えます。

賤ヶ岳の戦い・九州平定

熊本城
熊本城(熊本県熊本市)

天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで、清正は敵将・山路正国を討ち取る功績をあげ、「賤ヶ岳七本槍」の武勲として3,000石の所領を与えられます。

天正14年(1586年)から秀吉によって九州平定が行われると、功績として佐々成政に肥後一国が与えられましたが、失政により改易されます。成政の後任として清正が肥後北半国19万5,000石を与えられ、隈本城を改修して熊本城としました。

肥後半国を与えられた清正は治水工事、田麦の特産品化、南蛮貿易の取引などの政策を行い豊臣に貢献します。




文禄の役

文禄元年(1592年)の文禄・慶長の役に清正は参戦しており、臨津江(りんしんこう)の戦いで朝鮮軍の金命元を、海汀倉(かいていそう)の戦いで韓克諴を打ち破ります。

清正が指揮していた二番隊は辺境を進軍していたため、朝鮮軍から大きな抵抗を受けずにいたのに対し、他の隊は苦戦を強いられていたため、清正が戦功をあげているのは嘘ではないかという疑惑を持たれました。

清正はこれに反発し、この時から本国と朝鮮の取次をしていた石田三成や、一番隊を率いていた小西行長を不信に思い始めます。

慶長の役

慶長2年(1597年)の蔚山城(うるさんじょう)の戦いで、清正は側近500の兵のみを率いて蔚山倭城に籠城します。

清正らは毛利秀元や黒田長政の援軍が到着するまで明・朝鮮軍57,000人の攻撃に約10日耐え抜きました。

援軍到着後、蔚山倭城の兵は明・朝鮮軍を迎撃し、攻めかかる敵兵に銃弾で対抗しました。更に援軍に駆けつけた日本軍総勢が一度に突撃したため、明・朝鮮軍は20,000に上る損害を受け、日本軍は勝利を治めました。

関ヶ原の戦い

加藤清正像
熊本城・加藤清正像

慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、清正は徳川家康の養女を継室として娶って徳川家と縁戚になります。翌年には福島正則らと対立していた石田三成を襲撃しました。

徳川方に付いたと見える清正の行動でしたが、清正が庄内の乱を起こした伊集院忠真を支援していたことが分かると、家康の怒りを買ってしまいます。庄内の乱は家康が事態の収拾を図っていた戦いで、家康からすれば、清正が忠真に援助を行っていたことは背信行為に当たりました。

慶長5年(1600年)に家康が会津征伐を開始したとき、清正は参戦を許されず、肥後で謹慎を命じられました。しかし、家康の留守中に三成が挙兵すると、清正が西軍に付くおそれもあったため、清正の東軍参加が認められました。

清正は黒田軍と共に小西行長の宇土城、立花宗茂の柳川城などを開城させて西軍を打ち破り、その功績から小西旧領の肥後南半を与えられ、52万石の大名となりました。

最期

慶長16年(1611年)、二条城で家康と豊臣秀頼の会見が行われた際、清正は家康の十男・徳川頼宣の護衛役として付き従いました。

頼宣は清正の次女・八十姫と婚約しており、清正は旧主の豊臣家でなく、徳川家の家臣として会見に出席しました。

清正は頼宣、秀頼と共に豊国神社の参詣などに随行しており、家康が清正を会見に参加させたのは、豊臣・徳川の和解を清正が取り成してくれる期待を込めていたものといわれています。

二条城の会見後、清正は肥後まで船で帰国する途中に亡くなりました。

清正の死因

加藤神社
加藤神社(熊本県熊本市)

清正の死因は病死説、毒殺説など様々な説がありますが、明確な死因は分かっていません。

病死説の場合、腎虚(免疫機能の低下)、梅毒、ハンセン病などが死因といわれています。

ちなみにハンセン病の罹患率が高かった時代、加藤神社は病気平癒を願う参拝者が多く訪れていました。

毒殺説は、二条城の会見で出された料理によって毒殺されたというものです。清正は最終的に徳川家に仕えたといっても、かつて豊臣家に仕えていた武将です。

また、庄内の乱で一度家康に対し背信行為をしていることから、徳川家に暗殺された可能性もあり得ます。

清正の亡骸は、本妙寺(熊本県熊本市西区)の浄池廟に埋葬されました。




加藤清正の城

熊本城

熊本城
天正16年(1588年)、清正が肥後北半国19万5,000石の領主になったときに入城した城です。

天正19年(1591年)から改修工事を始め、慶長5年(1600年)には天守が完成しました。

慶長11年(1606年)に改修が終わり、「隈本」を「熊本」と改めて現在の熊本城になりました。

明治10年(1877年)に起こった西南戦争では、新政府軍が薩摩軍に対抗するため籠城した城で、新政府軍4,000人の籠城に対し、薩摩軍14,000人の攻撃に耐えて、西郷隆盛ら薩摩軍を撃退することに成功しました。

加藤清正の逸話

虎狩り

朝鮮出兵の際、清正が構えていた陣の近くに虎が出現し、兵や馬が襲われる事件がありました。怒った清正は虎を追いかけ、槍で虎の喉元を突いて仕留めたといいます。

後に清正はこの虎で作った虎皮を秀吉に贈ったと「清正記」に記されています。

朝鮮飴・清正人参

清正人参
清正は朝鮮出兵のときにもち米や水あめ・砂糖などを原料にした非常食を携帯していました。その非常食は「朝鮮飴」という熊本の銘菓になっています。

また、清正は朝鮮からセロリを日本に持ち込んだ人物とされており、「清正人参」とも呼ばれていました。

清正の井戸

清正の井戸
明治神宮(東京都渋谷区)には加藤清正が掘ったといわれる「清正の井戸」と呼ばれる井戸が残っており、現在はパワースポットとして知られています。

清正の井戸があった場所は江戸時代、加藤家の下屋敷があったそうです。清正が住んでいたかは不明ですが、清正の子・忠広が住んでいたと伝わる屋敷で、後に井伊家の下屋敷となりました。

清正の井戸は竪井戸方式ではなく横から水が湧き出す方式で作られており、現在も湧水が流れています。

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