1497年~1571年(享年75歳)
毛利 元就(もうり もとなり)は、安芸の戦国大名です。知略で戦国時代を勝ち抜き、一代で中国地方8ヶ国を支配する大名となりました。
毛利元就の家紋
毛利家の家紋は一文字三星(いちもんじみつぼし)です。
毛利家は平安~鎌倉時代の朝臣・大江氏流の家系で、学者であった大江広元が考案した家紋です。
一文字三星は、ものの始めとする「一」と、オリオン座の中央にある「三武・将軍星」と呼ばれる星を組み合わせて作られています。
毛利元就の生まれ
元就は明応6年(1497年)、安芸(広島)の国人領主・毛利弘元の次男として生まれました。
幼名は松寿丸といい、明応9年(1500年)に弘元が隠居すると、嫡子・毛利興元が家督を継ぎ、元就は多治比猿掛城(広島県安芸高田市)に住みました。
元就が10歳のときに弘元が亡くなると、家臣・井上元盛に所領を横領された元就は城を追い出されました。
身寄りのない元就を救ったのが弘元の継室・杉大方で、養母となって元就を養育し、永正8年(1511年)に元就は兄・興元の許可を得て元服しました。
毛利家当主
永正13年(1516年)、兄の興元が酒毒で急死し、家督は興元の嫡男・幸松丸が継ぎ、元就は幸松丸の後見人となりました。
毛利家中の動揺をついて、安芸武田氏当主・武田元繁が侵攻してくると、元就は幸松丸の代理として初陣しました。
戦況は数で勝る武田軍の優勢で進んでいましたが、大将の元繁が矢に当たって討ち死にすると武田軍は壊滅し、毛利軍は勝利します。
大永3年(1523年)、幸松丸が9歳で夭逝すると、元就は重臣たちの勧めもあり、毛利家当主として吉田郡山城(広島県安芸高田市)に入城しました。
吉田郡山城の戦い
天文9年(1540年)、出雲の戦国大名・尼子詮久率いる3万の大軍が吉田郡山城へ侵攻し、元就は3千の寡兵で籠城しましたが、家臣の陶隆房や同盟関係にあった大内義隆らの援軍が駆けつけたため籠城戦は成功し、毛利軍が勝利しました。
その後、元就は義隆と協力して佐東銀山城を落城させ、安芸武田家を滅亡させました。
元就は安芸武田軍の傘下にあった川内警固衆を自軍に引き入れ、毛利水軍の基礎を作ります。
厳島の戦い
天文20年(1551年)、大内義隆が家臣・陶晴賢の謀反で殺害されると大内家との同盟が決裂し、隆房率いる大内軍3万の兵が厳島に攻め込みました。
毛利軍が戦いに動員できる兵は5千と兵力で劣っていたため、元就は大内家で内紛が起こるよう謀略を図りました。
元就は隆房の家臣・江良房栄に300貫の領地を与えることで内応させ、房栄が毛利家に内応したことをあえて隆房に知らせました。
元就の調略によって房栄以外にも内応者が出始め、隆房は内紛を治めることに奔走しますが、その間をついて元就は挙兵します。
隆房は重臣・宮川房長を3千の兵と進撃させましたが、先手を打った毛利軍が陣を構えている宮川軍に襲撃し、房長は討死しました。
今度は隆房自らが軍を率いて厳島に上陸したものの、厳島周辺にいた海賊衆・村上水軍が毛利軍に付いたため隆房は逃げ場を失い、自刃に追い込まれました。
その後、大内家は元就によって滅ぼされ、大内家が治めていた旧領の大半は毛利家の所領となりました。
月山富田城の戦い
永禄3年(1560年)、出雲当主・尼子晴久が急死すると、元就は出雲へ侵攻しました。
晴久の死後、家督は嫡男の尼子義久が継承しており、毛利軍を迎え撃ちましたが、月山富田城の支城・白鹿城が毛利軍に攻略されました。
義久が月山富田城に籠城すると、元就は城を包囲して兵糧攻めを行い、更に離間策を用いて義久を疑心暗鬼に陥らせます。
結果、義久は重臣の宇山久兼を殺害し、尼子軍は内部から崩壊していきました。
そこへ元就が粥の炊き出しを行って兵士の降伏を誘うと投降者が続出し、籠城を続けられなくなった尼子軍は元就に降伏しました。
最期
月山富田城の戦いが始まった頃から元就は度々体調を崩しており、将軍・足利義輝に派遣された名医・曲直瀬道三が治療に当たりました。
治療の甲斐あって、元就は一時体調が回復したものの、元亀2年(1571年)に吉田郡山城で死去しました。以後、毛利家は毛利隆元の子で元就の孫・毛利輝元が当主となりました。
毛利元就の逸話
三本の矢
元就は死の間際に隆元・吉川元春・小早川隆景の3人の息子を枕元に呼び、1本の矢をそれぞれに折らせ、次に3本の矢束を折るよう言いました。
しかし、息子たちは誰も3本の矢束を折ることはできませんでした。そこで元就は「1本では簡単に折れてしまう矢も、束になれば頑丈になる」と言い、3兄弟で結束していくよう教えたという逸話です。
ただし、元就の嫡男・隆元は元就より早く死去しているため、この逸話には矛盾点があり、元就が息子らに宛てて書いた直筆書状「三子教訓状」を元に創作されたといわれています。
朝日信仰
元就の性格は、身寄りのない元就の養母となってくれた杉大方に多大な影響を受けており、杉大方は松寿丸(元就の幼名)に朝日を拝む念仏信仰を教えていました。
元就は生涯朝の念仏を欠かさず、元服前には厳島神社へ参拝する信心深い人物でした。厳島参拝の際、元就が家臣に何を祈願したのか尋ねると「松寿丸様が安芸の主になられるよう祈願しました」と答えます。
元就は「何故天下の主になれるように願わなかった」と言いましたが、家臣は「実現不可能なことを祈願しても仕方がありますまい。せいぜい、中国地方を治められればそれで良いでしょう」と答えたと言います。
家臣の答えに元就は「天下の主になると願って、やっと中国地方を治められるもの。目標が小さくては、安芸一国すら取れずに終わってしまう」と理想を高く掲げていました。
しかし家臣の言葉通り、中国地方を制すると元就は「天下を競望せず」と言い、自分の代ではそれ以上の勢力拡大を望まず、領土平穏に専念しています。
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