1570~1634(享年65歳)
森 忠政(もり ただまさ)は、美濃国の戦国大名です。森可成の六人兄弟の中で、唯一江戸時代まで生き残った人物で、信濃川中島藩主、初代美作津山藩主を務めました。




森忠政の生まれ

忠政は元亀元年(1570年)、森可成の六男として美濃国(岐阜)で生まれました。同年に父が戦死し、長兄・可隆も戦死していたため、森家の家督は次兄の長可が継ぎました。

三兄・蘭丸、四兄・坊丸、五兄・力丸は織田信長の小姓として仕えており、天正10年(1582年)に忠政も小姓として信長に出仕します。しかし、先輩の小姓が忠政にちょっかいをかけたことから喧嘩となり、忠政が相手を扇子で殴ったの信長に見咎められ、「まだ幼すぎる」として美濃国の母の許に返されました。しかしこの騒動のおかげで、忠政は同年に起こった本能寺の変に巻き込まれませんでした。

本能寺の変の際、忠政は母と共に近江安土城に居ましたが、森家と縁の深い甲賀忍者・伴惟安の助けで城から脱出し、甲賀にある惟安の所領に匿われました。この功により、伴家は森家の家臣として取り立てられました。

森家当主

天正12年(1584年)、森家当主の長可が戦死したため、忠政は5人の兄を戦で失いました。豊臣秀吉の命もあり、忠政は森家の家督を継いで金山7万石に留め置かれます。

忠政は森家の宿老・各務元正、母方の祖父・林通安ら重臣たちに支えられながら秀吉に仕え、小田原征伐や名護屋城、伏見城普請奉行などを務めており、秀吉からも豊臣姓と桐紋の使用を認められるなど厚遇されていました。

信濃国川中島

秀吉の死後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)にはかつて失った信濃国川中島13万7,500石への加増転封となりました。川中島の海津城は元々兄・長可が在城した城でしたが、信長が明智光秀に討たれると、長可は川中島を捨てて撤退しました。その際に川中島の百姓達が長可を殺害しようと追ってきましたが、長可もこれを追い返して落ち延びました。

そうした因縁のある川中島へ忠政が入領すると、長可を殺害しようとした川中島の百姓ら300人余りを磔に架け、また長可の撤退を妨害した高坂昌元(春日信達)の一族も処刑したといわれます。ただし、当時信州は人口が少ない国であったため、百姓たちは磔に架けただけで、処刑はしなかったとされる説もあります。

忠政は居城となった海津城を「待城」と改名しましたが、一説には「川中島の百姓には森家に遺恨のある者がいるので、いずれ私が来るのを待っていただろう。されば、この地の名前にせん」と「待城」と命名したともいわれています。

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦いが近づくと石田三成は忠政の大坂方参陣を促すため川中島を訪れましたが、既に忠政は家康に付くことを決めていたため破談となります。三成はこの時の忠政の態度に憤り、真田昌幸に宛てた書状で「右近大夫(忠政)への遺恨は格別」「秀頼様を騙し領地を掠め取った」と批判しました。

関ヶ原の戦いでは東軍に付き、隣国の真田昌幸が西軍に付いたため、忠政は真田への抑えとして川中島に駐屯しました。真田家の降伏後、徳川軍の入領に対して領民の一揆が起きると忠政はこれを鎮圧しましたが、戦後の加増はなく領地は据え置きとなりました。

右近検地

慶長7年(1602年)、忠政は「右近検地」と呼ばれる信濃4郡全てを対象とした大規模な検地を行い、領民に多大な増税を課しました。これに不満を持った領民たちの一揆が起こったものの、忠政は一揆を徹底的に鎮圧し、捕縛された一揆衆600人余りを磔に架けて処刑しました。

慶長8年(1603年)、小早川秀秋が死去すると小早川家が無嗣改易となったため美作国(津山藩)18万6,500石への移封が決まり、川中島には松平忠輝が入りました。

津山藩主

津山入りが決まった忠政でしたが、忠政の入領に対し、美作国にいた小早川家らの反発が起こりました。元小早川家臣・難波宗守が旧家臣団や在地土豪らと共に播磨・因幡国境付近を固めて忠政の入国を拒否しましたが、一揆の鎮圧に手慣れていた忠政は信濃国を発つと調略を行い、一揆衆の有元佐政を寝返らせて美作に入国しました。

忠政の入国を許してしまったことから一揆衆は戦う意味をなくし、森家に降伏して取り入る者、美作を去る者など一揆衆は瓦解したため、一揆は殆ど森家と交戦することなく終わりました。

その後、忠政は居城となる津山城を建築しましたが、建築に際して森家の中で諍いがあり、結果的に6人もの重臣を失う事態になりました。そのため忠政は江戸幕府旗本となっていた叔父・森可政に津山藩入りを要請し、可政の津山入り後は5,000石の所領を与えるなど手厚く迎えました。

大坂の陣

慶長19年(1614年)、冬の陣で忠政は大坂城に接近するも気付かれて発砲され、これが軍艦・城昌茂に問題視され森軍に静止命令が出されます。数日後、戦いが起こっても森軍は傍観していたため幕府の上使である水野勝成が忠政を叱責しましたが、「軍監の命に従ったまで」と援護しませんでした。結局、眼前で戦いが行われているのにも関わらず静止を解かなかった城昌茂が軍艦を罷免され、森家はお咎めなしに終わります。

大坂夏の陣では、森軍は208の首級を挙げ、森可春(森可政の子)は大坂方の布施屋飛騨守を討つなど活躍しました。

最期

寛永3年(1626年)、忠政の嫡男・忠広と2代将軍・徳川秀忠の養女・亀鶴姫が婚姻しましたが、亀鶴姫が早世したため将軍家との姻戚関係がなくなり、更に寛永10年(1633年)には忠広が30歳で病死しました。

同年、松江藩主・堀尾忠晴が死去すると堀尾家が無嗣改易になったため、その後釜として出雲・石見・隠岐の3ヶ国への加増転封が持ち出されます。忠政は乗り気ではありませんでしたが、最終的にこの話を受け入れました。

翌年、外孫に当たる関家継(森長継)と養子縁組し、長継が森家の嫡子として幕府に承認されましたが、忠政は突如体調を崩して死去しました。死因は桃による食中毒といわれています。

子孫

忠政の死後は森長継が津山藩主となり、男子24人といわれる子沢山でしたが、嫡男・森忠継は早世しました。忠継の息子(長成)は幼かったため五男・森長武が津山藩三代当主となりましたが、長成が成人すると四代目藩主になりました。

しかし長成も27歳で死去したため、長継は九男・森衆利を五代目とします。しかし、衆利は後に乱心したため津山藩は改易となりました。

ただし、幕府は長継に新たに備中西江原藩2万石を与えて、森家の存続は許可しました。元禄11年(1698年)に長継が死去すると跡目は八男・長直が継ぎ、その後森家は赤穂事件で断絶した浅野家の跡を継ぎ、播磨赤穂藩主として明治時代まで存続しました。

森忠政の逸話

津山城天守

津山城建築の際、はじめは五重の天守が作られていましたが、江戸城も五重天守であったため幕府に睨まれ、慌てて忠政は四段目の屋根瓦を破棄させたといわれています。

また、忠政の友・細川忠興がかねてより自分が築城した小倉城を自慢していたため、忠政は津山城築城の参考にしようと家臣を派遣し、天守の見取り図を作らせようとしました。しかし、これが忠興の家臣に見つかり捕らえられ、忠興の元に連行されました。

藩主の守城である見取り図を勝手に作ろうとするなど大罪に問われてもおかしくありませんが、忠興は連行されてきた人物が忠政の家臣と知ると喜び、好きなだけ城を見物させたといいます。また、忠興は津山城が完成するとその祝いとして「南蛮鐘」を贈答し、その鏡は廃藩置県となるまで、津山城の最上階に飾られていました。

仙千代救出

信長の死後、清須会議によって岐阜城主となった織田信孝の元へ、仙千代(忠政の幼名)は人質として差し出されていました。

しかし森家は羽柴秀吉・織田信雄側に付こうという考えになると、仙千代の兄・長可は自ら仙千代救出を決行して少人数で岐阜城に忍び込みました。その救出方法は仙千代を30m崖下に張っておいた布団に落とすというものでしたが、長可は無事仙千代を救出することに成功しました。

忠政と動物

ある時、忠政は金森長近に「鷹を飼いたいので、良い鷹の目利きをしてほしい」と頼みます。しかし、長親は「鷹など飼って何になるのか」と忠政に言いました。

当時、鷹は大名が飼えるものであって、庶民が飼うと処刑される動物でした。そこで忠政は「大鷹は好き嫌いで飼うのではなく、大名だから飼うものだ。鷹を飼うことも国持ち大名の務めの一つのようなものだ」と言ったといいます。

また、別の日には城の庭に狐が入り込んで飛び回っていたところ、忠政はうるさいと思ったのか、その狐を睨みつけました。忠政に睨まれた狐は縮こまって動かなくなり、それを見た忠政は「あれを外へ捨ててこい」と近習に言いましたが、近習が側に寄ると狐は慌てて逃げて行ったといいます。

動物好きなのか嫌いなのか分からない忠政の逸話ですが、鷹は大名の象徴として好んでいただけで、動物はそれほど好きではなかったのかもしれません。

武士の意地

ある時、江戸城で能の鑑賞会があり、忠政も息子の忠広を連れて参加しました。しかしその最中に地震が起こり、忠広は焦って避難しようとしましたが、忠政がじっと忠広を睨みつけていたため、そのまま動けずにいました。忠政と並んで座っていた堀尾忠晴も逃げようとしましたが、忠政が袴を掴んだため動けませんでした。他の大名たちは皆慌てて舞台前の白州まで降りていましたが、忠政父子の姿を見て、やがて席に戻ったといいます。

また、冬の時期に大名たちが火鉢の側で温まっていると、火の粉の塊が忠政の手に飛んでいきました。火の粉が忠政の手の上で燃えているので、その場にいた岡山藩主・池田忠雄が慌てて扇で火の粉を払いましたが、忠政は「そんなに慌てなくても、その内消えるでしょう」と笑って言ったといいます。

立花宗茂の前で小野鎮幸がイガ栗を素手で握り潰したのと同じように、「武士は人前で慌ててはならない」という武士の意地・教訓が窺える逸話でもあります。

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