1531年~1575年(享年49歳)
秋山 虎繁(あきやま とらしげ)は、甲斐武田家に仕えた武将です。

武田二十四将の一人で、武田信玄・勝頼に仕えましたが、岩村城の戦いで妻・おつやの方と共に亡くなりました。

秋山虎繁の生まれ

虎繁は大永7年(1527年)、秋山領主(山梨県南アルプス市)・秋山信任の子として生まれました。

天文11年(1542年)から武田晴信(信玄)の近習として諏訪攻めで初陣し、天文22年(1553年)に信濃国葛尾城(長野県坂城町)が落城すると虎繁が在城して戦後処理を任されました。

翌年からは大島城(長野県松川町)城代を務めて信濃国伊那郡の守備(郡司)を担当し、美濃・遠江・三河方面の軍事・外交に携わります。

信玄時代

永禄2年(1559年)~永禄8年(1565年)頃に虎繁は伯耆守となり、永禄11年(1568年)の駿河侵攻では、虎繁が信濃衆を率いて遠江へ侵攻します。

武田家は侵攻の際、三河の徳川家康と同盟交渉しており、徳川方は同盟締結の国分で駿河を武田領、遠江を徳川領と理解していたため、虎繁が遠江へ攻めてきたことを抗議し、後に信玄は虎繁を撤退させましたが、この事件以降、武田と徳川の同盟は決裂しました。

元亀2年(1571年)に虎繁は大島城の普請を行い、翌年からの西上作戦では山県昌景と別働隊を率いて奥三河へ侵攻し、三河の奥平家・菅沼家ら国衆の諸城を陥落させました。

天正元年(1573年)には岩村城(岐阜県恵那市岩村町)に入城して大島城代と岩村城代を兼任し、坂西家・知久家・座光寺家ら下伊那国衆を指揮官として300騎を統率したといわれています。

勝頼時代

信玄没後、虎繁は武田勝頼に仕えましたが、天正3年(1575年)の長篠の戦いで武田軍は大敗し、織田信忠よって岩村城が包囲されます。

虎繁は勝頼に救援を要請し、春近衆・岩村衆を率いて防戦しましたが、このとき勝頼は遠江方面の防戦にも忙殺されていたため救援は来ず、その後勝頼が岩村城へ出陣しましたが、織田軍の攻勢が強まると虎繁は城兵の助命を条件に信忠に降伏しました。

しかし、織田軍は虎繁を許すと見せかけて城兵を殺害し、虎繁は捕縛されると岐阜へ連行され、家臣の大嶋・座光寺家と長良川で磔に処されました。

虎繁の妻・おつやの方

おつやの方は尾張の武将・織田信定の娘で、織田信長の叔母に当たる人物です。

東美濃遠山荘の地頭・遠山景任の妻でしたが、元亀3年(1572年)に景任が後継ぎが無いまま病没すると、信長から五男の御坊丸(織田勝長)が養嗣子として岩村城に送り込まれます。

しかし、御坊丸はまだ幼かったので、おつやの方が当主を継いで岩村城の女城主となりました。

その後、信玄による西上作戦で岩村城が虎繁の軍勢に取り囲まれると、虎繁はおつやの方に婚姻を条件に開城するように迫り、おつやの方はそれに従ったため岩村城は武田のものとなりました。

元亀4年(1573年)、信玄は虎繁を岩村城城主とし、おつやの方との婚姻も行われて御坊丸は甲斐に送られました。

天正3年(1575年)の長篠の戦いで岩村城が織田軍に包囲されると虎繁は降伏し、長良川でおつやの方と共に磔で処刑されました。

その理由は、長篠城の奥平信昌が徳川家康に寝返った際、武田勝頼が奥平の妻を磔にした報復とも、信長が裏切られた鬱憤を晴らすため行ったともいわれています。

虎繁とおつやの方との間には六太夫という息子がいましたが、岩村城落城前に落ち延びて瀬戸内海の村上水軍に仕えたといわれ、慶長5年(1600年)伊予国松山の三津浜夜襲で27歳で討死したといわれています。